琉球藩の時代 その15

~クズエピソードその3  琉球藩当初に実施された減税策~

1872年(明治5)に琉球王国は琉球藩に鞍替えします。以前に記事にしましたが、その際に明治政府から琉球藩に対してプレゼントがありました。その内容を再度記述しますが

1.琉球国の薩摩藩に対する債務を帳消しにする。

2.明治政府に納める貢租は2割減の8200石に設定する

3.しかも代金納で構わない。大阪の米相場に於いて10月から12月の米の市場価格の平均値を算出して8200石分を代金納で収めること。

の3点です。この措置は「慶長以来薩藩の管領に置かれ、その賦税で相当に苦しんで来たため、国民は疲弊している」という琉球王府側の主張に対して明治政府が配慮した結果です。

当然琉球王府側は諸手を挙げて大歓迎します。プラスアルファで明治天皇より3万円の下賜あり、清国との交流も従来通りなので、王府側にとっては願ってもない事態になったのです。そのときの浮かれた気分を反映した和歌が

いにしえの人にまさりて嬉しきは この大御代に逢えるなりけり

ただしこの大御代はもちろん琉球藩庁の都合のいいようにはなりません。後に地獄を見る羽目になったのですが、今回は減税に対する琉球藩の処置について記述します。

1873年(明治6)に明治政府に対して初の納税が行われます。そのために琉球藩側では大阪に琉球出張所を設立して、貢租の品々(砂糖など)を大阪市場で販売し当初定められた納税額*を明治政府に収めます。

*初年度(明治6)には4万3853円65銭6厘を収めた記録があります。

この納税方法の特徴は貢租で徴収した物品を上手に売り捌けば可なりの差額が発生することです。その差額分は当然琉球藩が処分して構わないため、この処置は大減税と言っても過言ではありません。

明治政府が減税を実施したのは「慶長以来薩藩の管領に置かれ、その賦税で相当に苦しんで来たため、国民は疲弊している」との王府側の主張に配慮したためです。当然貢租の物品の販売額ー納税額=差額分は課税対象者である百姓階級に対して還元してしかるべきですが、そこはクズ極まりない琉球藩の首脳たちで、差額分はまったく還元されず自分たちで山分けしてしまうのです。

どういうことかと言うと、琉球藩側では農民たちから従来の税率で貢租を取り立てて、減税で発生した差額分を農民たちに還元する措置をまったく行っていなかったのです。このやり口は後に明治政府にバレてキツい突っ込みが入ります(続く)。

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