琉球藩の時代 その16

1872年(明治5)に琉球藩に移行した際に真っ先に問題になったのは薩摩藩関連の業務に師事する士族の失業問題です。在番奉行所(大和仮屋)*が明治政府の外務省出張所に鞍替えしたために在番奉行所に勤める士族たちが全員失業する羽目になったのです。

*在番奉行所:1628年(寛永5)現在の那覇市西町に設立された薩摩藩の出張所。 

琉球藩庁としても見過ごすことのできない問題のために、当時明治政府より琉球藩に派遣されていた伊地知貞馨、奈良原幸五郎と協議して上級士族たちの知行を減額してその差額分を失業した士族の救済に充てことで了承を得ます。その際に減税分で発生した差額分も失業した士族救済に使われたことは十分に考えられます。

*伊地知貞馨(1826~1887):薩摩藩出身の官僚。1872年に来琉して外務省出張所に勤務していました。 

*奈良原幸五郎(1834~1918):薩摩藩出身の官僚。のちの沖縄県知事。 伊地知貞馨とともに来琉して外務省出張所に勤務していました。

だがしかし、18世紀以来士族は税を免除される特権を有していたため、本来減税分の差額は課税対象者である百姓に対して還元すべき代物です。失業した士族の救済よりも先に百姓たちに減税分の還元策を実施しなければならないのですが、当時の琉球藩庁の首脳たちにはそういう考えがなかったようです。現代の感覚ではありえない話です。

1870年代に日本本土から多くの知識人が来琉していますが、その中の一人で農学者の川原田盛美(かわらだもりはる)氏が当時の琉球藩内の情勢を記述した著書が残っています(琉球紀行:明治9刊行)。やや批判的に当時の情勢を記述した著作ですが、この著書の結論は(ブログ主の責任で断言すると)

「こいつらにまかせたらダメだ」

の一言に尽きます。後に琉球処分官として来琉した松田道之(1839~1882)も探索人*を利用して琉球藩内を調査した結果同じ結論に行き着きます。当時来琉した日本人たちは琉球国内の疲弊は薩摩藩による過酷な収奪ではなく、琉球王府の為政者たちが招いた人災であることに気が付いたのです。だからブログ主は多数の沖縄の歴史家とは意見を異にしても当時の廃藩置県の処置を「極めて正しい」と断言するのです。

*探索人:現代の用語で言えばスパイです。生活に困窮した那覇の士族が探索人として明治政府に雇われていました。

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