黑いりうきうルネサンスの時代

本日(6月18日)、ブログ主は巴志(=尚巴志)の足跡を調べるために『球陽』をチェック中、思いもよらぬ記述に遭遇しました。前に『蔡温時代の人民 – 1952年1月1日付琉球新報より』と題した記事を掲載し、蔡温が活躍した尚敬王(在位1713~1751)時代の暗黒面について言及しましたが、改めて『球陽』を読むと予想の斜め下を行く惨劇に背筋が凍る思いがしました。

ちなみに『球陽』は尚敬王あたりを境にして記述内容が素でエグくなります。参考までに Wikipedia の尚敬王の記述を参照すると、

尚敬王(しょうけいおう、1700年8月3日(康熙39年6月19日) – 1751年2月24日(乾隆16年1月29日))は琉球第2尚氏王朝第13代国王(在位:1713年 – 1751年)。第12代国王尚益王の子。蔡温を三司官にして多くの改革を行った。また教育や文化振興に力を入れ、琉球を文化大国へ導くなどその手腕は近世の名君とうたわれた(中略)。

とあり、巷の認識ではこの時代は”琉球のルネサンス(復興期)”にあたりますが、果たしてその実態はいかがなものか。ためしに尚敬王31(1743)年の親に三度売られた子供の記述をご参照ください。

西原間切棚原村の城間、三次父に売られ、三次自ら贖(あがな)ひて親を養ふ

棚原村に城間掟親雲上なる者あり。年十三の時父之れを売りて債〔務〕を償ふ。成人するに及び主人其の力を竭(つく)すを見て、米二表を賞するに、則ち以て運営し年十八に至り身を贖ふ。父又〔之れを〕売りて以て債を償ふ。後主亦その力耕を奨して銭百貫文を賜ふ。則ち之れを営みて利を生じ夜は私田を耕し二十三歳に至り身を贖ふ。其の債尚未だ清楚(=清算)せず亦売らるるに因り、昼は則ち主田を耕し夜は則ち私農を治め、年二十七に至り贖ひ回る。此れより千営万運乃ち富を致し以て親を養ふ。又妹四人有り。倶に父に売られ落ちて人下に在り。皆之れを贖ひて以て親の悦を致す。年三十九に至り聞得大君御殿に供役し、黄冠の位を拝す。

引用:球陽巻14「西原閒切棚原村城閒三次被父賣三次自贖養親」より

上記引用を大雑把に説明すると、西原間切内の棚原(たなはら)村にすむ城間(ぐすくま)さんが父の債務返済のために3度身売りを経験したというお話です。身売り中の奮闘およびその後の出世についての説明は割愛しますが、この話のポイントは父が子供を売る行為の是非に言及していないことです。

参考までに尚敬王以降の身売りは”年季売り(一定期間の労働)”が主流で、労働条件は悪いものではありません。自宅通いが主流ですし、月に5~6日程度の休暇もあり、その期間は私農を行なって稼ぐのは自由です。あと上記引用にも言及されていますが、主人から”勤労オプション”の提供もあり年季満了前に自らを買い戻すことも可能だったのです。

ところで城間父がなぜ3度子供を身売りせざるを得ないほど債務を抱えたか疑問に思われるかもしれませんが、誤解を恐れずにハッキリ言うと

税の滞納

以外考えられないのです。理由は簡単で先にも述べた通り親が子供を売る是非には全く触れていないからです。城間父が当時基準で無能労働者であったか、あるいは病気などで思うように働けずなどの理由があれば、その点について何らかの記述があるはずです。

つまり普通に働いて税を滞納せざるを得ないほどの重税が課されていた

と見るのが真実に近いのではとブログ主は考えています。

ちなみにこの話では妹4人も身売りされたと記載されていて、父の債務返済のために一家が離散したいわば”家内倒れ”が起こっています。古今東西”一家離散”は最も悲劇的な出来事ですが、なんと尚敬王時代の『球陽』の記述を読むと城間一家以外にも家内倒れのケースが散見されます。実は琉球一千年の歴史を俯瞰しても、税金滞納が結果として一家離散に結びつくようになったのは尚敬王時代からなのです。

なぜここまで琉球の経済が悲惨なことになったのか、その主因について今回は言及しませんが、眞榮田義見さん曰く

その高い文化は人民の汗の結晶であるという言い方は当らないかもしれないが、人民の貢賦の上に文化を作るすべての条件が作られた事を考えるとそう見てもいいのである。沖縄の黄金時代と言われる尚敬王時代の人民にもまたそういう事はたしかに言われるのである(中略)

引用:蔡温時代の人民より

の記述がいわゆる琉球ルネサンスの実相ではなかったのか、そして後世の歴史家の口が閉ざさざるを得ないほどの深い深い闇を抱えていた時代であったとブログ主は確信しています(終わり)。

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