平和教育の致命的な欠点

本日は昭和36(1961)年に琉球政府によって慰霊の日が制定されてから59年目にあたります。この時期になると毎年恒例で沖縄戦体験や平和学習に対する記事が激増しますが、近年「沖縄戦の体験が次世代に伝わっていない」「平和学習のあり方を見直すべき」などの論調が目立って増えてきました。

実はブログ主は昭和から続く沖縄の平和教育について「違うそうじゃない」感を抱き続けています。なぜそのような違和感を抱いたのか、ためしに下記引用をご参照ください。

戦争は個人の「心の内なる」問題ではない

「平和主義者」の考え方には、いくつかの特異な前提がある。通常、当の平和主義者はそこまで意識していない。そこまで考えてみたこともない。平和主義者を自明のものとして頭から信じているので、重大な問題点がいくつかあるのに気がつかないのである。

戦争を憎んで否定するのは、個人の行為である。しかも、それは個人の「心の内なる」信念の問題である。しかし、戦争そのものは、人間個人の問題ではない。ましてや、人間の「心の内なる」問題ではないのだ。

戦争は、国家の政策の問題である。国家とは、摩訶不思議なもので、単なる個人の集合体ではない。現代の国際社会の主体は、そのような国家である。個人は自分の属する国家の構成要素かもしれないが、国際社会の直接の構成要素ではない。個人の信念の算術的合計は、国家の政策とはなりえないのである。

「社会は個人の算術的合計ではない」ということは、デュルケム以来、じつは社会学の基本的命題の一つである。一般の常識とは少しちがっているので、ここで説明しよう。

「ひとりひとりの個人がよい人になれば、社会もよい社会になる」「国民ひとりひとりが富むことが、国が富むことである」……というような、個人に関して成立する命題が社会(国家)全体に関しても成立するという考え方を、個人と社会との並行主義(パラレリズム)という。

このパラレリズムを平和についての命題としてあらわせば、「国民のひとりひとりが平和をねがえば、国家も平和をねがうことになり、国際社会も平和をねがうようになる」ということになり、さらにこのパラレリズムが、「ねがうことはからえらるることなり」式の念力主義(次節で説明する)に結びつくと、ひとりひとりが平和をねがえば、世界に平和がもたらされることになる。

そして、この命題を逆にとれば、世界に平和がもたらされないとすれば、国民の中に平和をねがわない者がいるからだ、ということにならざるをえない。したがって、彼こそ平和の攪乱者として、まことにけしからん者だ、ということにならざるをえなくなる。

もちろん、この論理は、パラレリズムと念力主義の二つの前提が成り立ってはじめて、成立するものである(中略)

引用:小室直樹著『新戦争論』16~17㌻より抜粋

一読すればお分かりかと思いますが、沖縄の平和教育はまさにこの考え方で、個人の内なる良心の結集が最終的には平和な社会を築くという前提が絶対の真理として取り扱われているのです。

ブログ主が違和感を覚えたのは「この絶対の真理に対して疑問をはさむことを許さない」という昭和的な”空気の支配”がいまだ沖縄の教育界に根強く残っている点です。つまり沖縄(とくに教育現場)では戦争に対しての自由な言論が保障されていません。小室博士が言及している通り「世界に平和がもたらされないとすれば、国民の中に平和をねがわない者がいるからだ、ということにならざるをえない。したがって、彼こそ平和の攪乱者として、まことにけしからん者だ、ということにならざるをえなくなる」という命題が貫徹してしまうのです。

ちなみにブログ主が見たかぎりですが、平成の世代は「社会は個人の算術的合計ではない」を体感している節があります。昭和世代との意識のずれは思った以上に大きく、パラレリズムを前提とした従来の平和教育に対して若い人たちが何らかの違和感を訴えても無理はありませんし、ましてや「そんなこというべきではありません」との態度は反発を招くだけです。昨今の平和教育の閉塞感は案外このあたりに原因があるのではと思われます。

最後に沖縄においては、平和教育者イコール”人格的に立派”という図式が成り立たないケースがあります。人格的に申し分ない一流の人材が平和教育を行なうのが理想ですが、我が沖縄には

家庭内で鉄の暴風を再現した著名な平和活動家

がいたことはよく知られています。はっきり言って個人と社会の並行主義を前提としているにも関わらず、言行不一致の指導者の教えによって社会に真の平和がもたらされるとはとても思えないブログ主であります(おわり)。

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