金丸の謎 – 聖名と俗称

前回の記事において、尚円王の神號をブログ主なりに解説しました。彼の神號はざっくり言って「完全無欠の英祖王の末裔」ぐらいのイメージでお考えいただければよいのですが、ここで注目は「金丸」という名称です。

現代において、尚円王は即位する前まで、内間金丸あるいは金丸の “通り名”だっという認識が一般的ですが、実は誤りなんです。というのも彼にはちゃんと童名が伝わっていて、金丸とは “聖名” すなわち王府の祭礼の時に唱えられる名前なのです。

※尚円王の童名は王代記によると「思徳金(ウミトゥクガニ)」、一節では「松金(マツガニ)」です。そして彼が平民であるならば、通り名はおそらくトゥクーさんあるいはマチューさんだったかもしれません。

では金丸の名前がいつから通称扱いになったのかを調べたところ、それは18世紀の史料「中山世譜」と「球陽」からです。興味深いことに17世紀半ばの史料「中山世鑑」には金丸という名称は登場せず、尚圓公とか内間の御鎖などと表記されています。つまり羽地朝秀の現役時代ぐらいまでは残っていた “祭祀のセンス” が18世紀には完全に失われたとの傍証なのです。

尚円王の神號で注目すべき点はほかにもあり、それは末續(すゑつき:スィーツヂ)という表現です。前の記事で説明た通り「英祖王の末裔」を意味する単語ですが、実は第二尚氏時代になって為政者たちが「恵祖根屋末(ゑそにやすゑ)」を意識するようになっているのです。

参考までに英祖以降、尚徳王までの神號をチェックすると、真物(マムン)とか君志(キミスィ)など、神そのものを意味するワードが使われていますが、第二尚氏になると(尚真王を除いて)、英祖王の末裔を強調するやたら長ったらしい神號が付けられています。とは言っても、「神と同格」とのセンスはいっしょなので、尚円王も “りうきうよのぬし” の伝統を継承したことが伺えます。ちなみに神號が長くなったのは、おそらく国王即位の慶賀式(百果報事)が第一尚氏時代よりもゴージャスになったからと考えられます。

最後に尚円王について、(個人的な)最大の謎に触れますが、

誰が神號を授けたのか?

この点は次回の記事で深堀します。