琉球・沖縄における国防意識の変遷 沖縄戦後から現代にいたるまで

琉球・沖縄における国防意識の変遷について、これまで調子に乗ってあれこれ考察しましたが、最後に沖縄戦後から現代にいたるまでの意識の変遷について述べていきます。その前に沖縄戦がどれほど厳しい体験だったか、よろしければ下記をご参照ください。

・その後、昭和19年に青年学校が独立、私は豊見城村立青年学校長に任命された。青年学校の校門は、兵営の門に通じていた。在校生は480人。次々に戦地に動員され、戦後あつまってみたが三分のニが戦死、百人たらずの生存者だった。「ばんざい、ばんざい」と送り出した童顔の若者たちの面影が、いまなお脳裏に強く残っている、一時は校長だった私自身、生き永らえてよいものか責任を痛感した。(中略)

そのうち小禄飛行場の拡張工事や軍の防空壕堀りに一、二年の生徒も動員され、学校は休校状態に入った。アメリカの爆撃機も沖縄上空に飛来、昭和20年3月1日の空襲で祖母は家の中で亡くなった。空襲が激しいので母、妻子は防空壕にやり、私と祖母が家にいた。用事があり私は、空襲の合間をぬって壕まで出かけた。その間に家から約40メートル離れたところに、爆弾が落ち、爆風で家がふっ飛び祖母はその犠牲となった。

戦火は日増しに激化、港川に艦砲射撃があったという情報を聞き、母や妻子を引き連れ、国頭へ避難した。空襲下の夜道を名護市幸喜の山奥まで避難するのに2晩3日かかった。山に身をひそめ、8月15日の終戦も知らず、9月ごろ宜野座に下山した。(私の戦後史 第6集 長嶺秋夫より抜粋)

・それより前の(昭和20年)3月20日前後、突然田端一村先生が訪ねてこられ「沖縄翼賛会に来て加勢してくれ給え」、私にとっては正に晴天のへきれきである。田端先生は一中の奉任教師で、当時の県教育界では次期最高メンバーと目されていた。(当時助静氏は南風原青年学校長)

戦時体制の強化が進むにつれ沖縄でも知事を支部長とする翼賛会が組織され、那覇市長を辞めて当間重剛氏が副支部長兼事務局長で就任、田端先生はその補佐役として庶務部長に抜てきされた。私は「学校をどう守るかという使命もある。それに県民指導の重責を担う器でもない」と固く辞退したが、聞き入れられない。部隊に行っている照屋教頭とも相談した結果「精いっぱいがんばって下さい。私も防衛隊の諸君と命を賭して戦います」という返事。意を決して辞令を受け、直ちに行動開始。

師範学校生で編成した鉄血勤皇隊千早隊の十数人を部下とする情報宣伝部長が私の役目。以後の私の行動は田端先生直属の補佐役として「郷土防衛、民衆保護のためには命をかけねばならない」という死生観に到達、勇敢、冒険的というか常に危険地帯に突入するようになった。

砲煙弾雨の中約一週間、ただひとりで新聞配達をしたり、田端先生と二人で豊見城村から首里城の壕まで砂糖20キロを運んだときの苦労団など数多く想起すべきものがあるが割愛したい。田端先生は激戦地摩文仁で戦死されているが、その最後は見とどけることはできなかった。

翼賛会での私は国民服に戦闘帽、日本刀のいでたち。出会う知人も「勇ましい格好しているな」と激励したりしていたが、こちらも死を覚悟しての真剣な毎日。しかしそれも2ヶ月足らずで、5月24日には田端先生を先頭に摩文仁に退却。

すでに南部各地も続々と敗走する兵が南下して騒然たる戦場となっている。そのうち米軍が小禄に侵攻するという情報が入り、住民を玉城、知念方面に避難させよーという軍命が千早隊に下った。田端先生の指示で小禄出身の隊員2人と私がその任を受けて北上。

これが田端先生との最後の別れになった。現在の豊見城公園近くまで来て見ると、眼下で小禄方面に米軍が上陸しているのが発見された。時遅く、もはや小禄まで行くことは不可能である。隊員2人は郷里の危険を前にして、私の制止を振り切って小禄潜入を敢行、私は南部の住民避難と報告のために糸満方面に向かった。

途中、当時那覇署長をしておられた故具志堅宗精氏、山川泰邦署僚などが、兼城の墓の中で署員の指揮をとっており、いまのひめゆりの塔近くでは金城増太郎三和村長が墓地に避難している。こうした人たちに「ここは戦場になるから早く避難した方がいい」と指示したが、行政も警察ももはや指揮系統はめちゃくちゃの状態。

そんなところに妹の夫、国吉真政君と出会ったところ「負け戦になっているのに親を放ったらかして何をしている」という。早速付近をうろうろしている父を見つけ、その日は近くのヤギ小屋で一泊。翌日夕方摩文仁に移動しながら喜屋武岬海岸近くで簡単な壕をつくって小休止。このとき突然米軍の砲撃を受け、目前で父助信が戦死した。

同じ壕にいた十数人の避難民のなかで、父だけが破片に命中したのだから悲運としか言いようがない。日本の勝利を信じ命をかけて行動した私にも敗戦思想が強まった。敗残兵が住民を壕から追い出し、食糧を奪い取る光景も何度も見てきている。

九分九厘負け戦がわかってきているなかで、これ以上軍に協力して死んでいくことにためらいが生じた。それに疎開先で苦労しているであろう妻子の面影も脳裏をかすめ「行きよう」と決意。6月27日未明、他の住民多数とともに同じ壕にいる日本兵の目を盗みながら脱出を開始。しかし摩文仁の丘を逃げのびている途中に米軍に発見され捕虜となった。(私の戦後史 第5集 翁長助静より抜粋)

現代に生きる我々からは想像も絶するほどの厳しい体験をしていることがお分かりでしょうか。それゆえに昭和22年(1947)5月3日に施行された日本国憲法は当時の沖縄の人たちから熱狂的に支持されます。前述の長嶺秋夫さんもその著書『私の歩んだ道』のなかで憲法の施行に対して「画期的なこと」を記載しています。

なぜ当時の人が日本国憲法を熱狂的に支持したのか、理由はただ一つ

「これでもう戦争はしなくてもいいんだ」

という安堵感です。「ほっとした」という表現がぴったりかもしれません。ブログ主は宮良ルリ先生を始めとした戦争経験者の体験談を何度か聞いたことありますが、この感情は保守・革新ともに共通です。それだけ沖縄戦の経験があまりにも凄惨だったと言えます。

だがしかし昭和24年(1949)の中共革命の影響が、当時の沖縄の人たちの国防意識に大きな変化をもたらします。そして昭和35年(1960)の日米安全保障条約の締結後、沖縄においては

・日米安保条約の中で、施政権を先に日本に返還すべきだ(保守系)

・日米安保反対、基地反対で憲法9条の理念にそって平和国家を目指すべきである(革新系)

と復帰のありかたを巡って県内世論が二分されることになります。言い換えると「憲法だけではダメだから米軍に守ってもらう」「米軍がいるから戦争に巻き込まれる」になりますが、現実には前者の方法で沖縄は日本国に復帰します。そして歴史は前者の選択が正しかったことを明示しています。理由は「沖縄が日本国に復帰して以降、在沖米軍基地を攻撃され国土が蹂躙されることがなかった」からです。それゆえに支持基盤が革新勢力でありながら、現実的な復帰の方法を選択した屋良朝苗主席(当時)がどれだけ偉大だったか、現代に生きる沖縄県民はもっと理解すべきなのです。(続く)

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