琉球・沖縄における国防意識の変遷 その2

現代の沖縄県民(とくに旧革新勢力)の国防に対する意識、つまり「基地があるから攻め込まれる、だから米軍基地に反対。自分達が相手に攻め込む意志がなければ、相手から攻め込まれるはずがない」という考えかたは、第二次世界大戦の沖縄戦、およびアメリカ世を経験したことによって生じたもので、もちろん琉球・沖縄の歴史全体を貫く永続的なイデオロギーではありません。当然ながら時代によって時の権力者たちの国防意識は変遷しています。

たとえば嘉靖年間(1522~1566)の大倭寇に対する琉球王国の対応ですが、時の国王尚清(1527~1555)は倭寇襲来の可能性が伝えられると、1546年に首里城の城壁の改築、および1551年に那覇港に砲台を築いて警備体制を強化しています。このあたりの事情は現在の歴史教科書ではあまり取り上げられていませんが、今回ブログ主が伊波普猷先生の『古琉球』から一部文章を抜粋しますので是非ご参照ください。(琉球に於ける倭寇の史料、旧漢字はブログ主にて訂正)

明末に南支那を侵した倭寇の余波が琉球諸島に及んだということは、これまで人の知らなかったことである。此は琉球に於いてさえも忘れられていて、ただ記録によってのみ伝えられている。しかしこの時代の記念物は、今なお那覇港の左岸に遺っていて、三百五十年前の恐ろしい日のことを語っている。琉球に往ったことのある人々、那覇江の港口に南北砲台の後が有って、珊瑚礁の上に並峙して、江口から海中に跨入(強引に中に入り込むの意)しているのを見るであろう。北砲台は所謂三重城で14~5年前までは其堤中に三個の橋門があって潮を通じていた。南砲台は所謂了攬新森城(やらざもりぐすく)で、堤の中程のエビノマエという所まで、一尺五寸立法の台の上に高五尺巾一尺八寸厚四寸の砂石で造った石碑がたっている。これすなわち琉球に倭寇があったことを語る唯一のヒストリアンである。(中略)

十六世紀の中葉(大永2年(1522)頃より天文22年(1553)頃まで凡そ32年間)に当って琉球に於いて土木工事が頻りに起り、随って琉球語の金石文を刻むことが盛に行われた。この頃日本の辺民が頻りに支那の江淅を侵し、早晩琉球にもやって来るだろうとの警報が伝えられたので、時の王テニツギワウニセ(尚清)は国防の忽にすべからざるを感じて、明の嘉靖25年8月(1546/08)より同年12月までかかって首里城の東南壁を改築した。この時のことを書いた碑文は添継御門の前に立っていて、表には例の琉球文が刻まれ、裏にはその漢訳が刻まれている。5年を経て、嘉靖30年(1551)の3月に那覇港の左岸の了攬新森城(やらざもりぐすく)に砲台を築く設計をなし、この年の12月2日より工事を起して同32年の4月28日(1553)に落成を告げた。そこでオモロを作って天地神祇を祭り国家安康を祈った。そのオモロに曰く、

天つぎの、おさうぜ、大きみは、たかべて、やらざもり、いしらごはおりあげて、とももすへ、せいくさよせる、まじ、

わうにせの、おこのミ、せたかこは、のだてて、やへざもり、ましらごは、つみあげて、とももすへ、

きこゑ、天つぎの、世の、さうぜ、めしよわちへ、ねくの、みよう、いしらごは、ねりあげて、とももすへ、

とよむ、わうにせの、世の、さうぜ、めしよわちへ、おくの、うみのましらでは、つみあけて、とももすへ、

きこゑ、大きミぎや、やらざもり、ちよわちへ、だしきや、くぎ、さしよわちへ、とももすへ、

とよむ、せだかてが、やへざもり、ちよわちへ、あさか、がね、とどめば、とももにへ、

明る年の6月(1554/06)に、琉球文で書いた石碑をエビノマエに建てて、ヤラザモリ城を築いた理由と其落成式の盛況とを叙し、終りにいざ鎌倉という時には、三人の国務卿は直ちに国民軍を招集して、外敵を防げという意の詔を記した。(中略)。

兎に角琉球の方では武備を厳にして今か今かと倭寇を待っていた。果たせる哉、尚清王がなくなった翌年、明の嘉靖35年の夏(1555年)、世子尚元(テダハジメ)が即位して間もなく、支那の浙東を襲って撃退された日本の辺民が、待ち構えていたヤラザモリ城の下に現われた。尚元は忽にして之を殲(ミナゴロシ)にした。この時の倭寇の兵力が如何程であって、如何なる戦闘が双方の間で行われたかは知らないが、同じ年に尚元が此時掠えられて来た明人金坤六人を明国へ送り帰して明帝に賞せられたこと、同42年(1563)と44年(1565)とに漂浪の明人及び日本人に掠られて来た明人を明国に送り帰したことは明かである。この事は新井白石が「南島志」にも見えている。(中略)

上記の文章からは「こっちの事情関係なく、相手側から勝手に攻めてくる場合に備えて」という発想がハッキリ伺えます。しかも本当に攻めてきた時は容赦なく撃退しています(殲という単語が使用されていることに注目)。1554年に建立されたやらざもりぐすくの碑には「沖縄は聞得王君が見守っておられるので、昔から外敵の侵入はなかったが、万一のために築いた。いざというときには、一軍は首里城の守備、一軍は那覇の守り、南風原・大里・知念・佐敷・喜屋武などの一軍は垣花のやらざ森城に寄りそろって防御せよ」と記載されていたようです。(現在この碑はなし。ただし伊波普猷先生の「古琉球」に碑文の記載あり)。この碑文のポイントは倭寇という現実の脅威にさらされた当時の権力者たちが、イデオロギーよりも現実を優先したことで、現代の沖縄県民よりも国防をシビアに考えていたことが分かります。北朝鮮の核開発や尖閣諸島の問題を抱えても暢気に基地反対を唱える人たちと比べると非常に興味深いものを感じますね。

にほんブログ村 歴史ブログ 琉球・沖縄史へ
にほんブログ村