琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 男色の慣習がなかったこと その2

琉球と薩摩とは1609年以前にも付き合いがあります。数百年来の長い交流があるのですが、それにしては薩摩から持ち込まれた文化がほとんど見当たらない*のです。薩摩を経由して日本の文化が持ち込まれますが、沖縄を実質的に支配してきた国の慣習が持ち込まれないことはよく考えると異様です。

*琉球侵攻における戦争目的は明国との貿易利権の確保です。琉球人が薩摩化するとどうしても不都合が生じてしまうため、薩摩藩は琉球人と薩摩人との区別を強調する政策を取ります。おかげで薩摩と琉球王府の関係は良好で、270年にわたる平和と安定の時代が訪れます。

中国大陸とは1372年(応安5/建徳3)に察度が冊封を受け入れて以来長い交流があります。必然的に世界の超大国である明や清とお付き合いすることで中華の文化が持ち込まれます。代表的なのは儒学でしょう、ただし持ち込まれなかった文化もあります。そのうちの一つが男色(ナンセー)*です。

*歴史的に中国大陸は世界に冠たる男色の本場です。男色という言葉も中国大陸からもたらされたものです。

琉球が中国大陸の政権との交流は当初は泉州ですが、泉州がある福建地方は中国大陸でも男色の盛んな地域です。1472年(文明4)以降は朝貢貿易の拠点は福州になりますが、当時世界の超大国であった明国の慣習が持ち込まれなかったのは改めて考えるとおかしいです。イスラムの教えでは男色は明確に禁止ですが、ニライカナイの神が同性愛を禁止したなんて聞いたことありません。当時の琉球国の上流階級には受け入れがたい何かがあったとしか考えられません(続く)。

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