1913年(大正2)のユタ裁判 その1

なぜユタを信じるのか?

前回の記事でユタについて取り上げました。ついでと言っては何ですが、今回の記事から近代においてユタの問題が社会的にクローズアップされた事件を取り上げます。

タイトルが何処かで聞いたことのあるもろパクリですが(笑)、琉球・沖縄の歴史において、現代の歴史教科書には記載がなくても社会的に反響を呼んだ事例は多くあります。現代人にこのまま忘れ去られるのも勿体ない面白い事件もありますので、この場を借りてブログ主が調子に乗って幾つか紹介します。

*追記、タイトルを変更しました。大日本帝国時代の出来事にまとめます。

最初に取り上げる事件は1913年(大正2)の2月27日に那覇区裁判所で開かれた仲地カマドさん(当時44歳)の公判(通称ユタ裁判)について記述します。この事件の特徴は、歴史上においてユタの検挙・弾圧は珍しくも何ともありませんが、ユタと疑われた人物がその容疑を認めず裁判に訴えた点です。

それと琉球新報がこの裁判の結果を大々的に報じて、反ユタキャンペーンを行ったこともポイントです。記事の中に「精神の害毒」などの表現でユタを非難したり、当時演劇で上演されたユタ芝居の観戦レビューを紹介するなど社会的な関心を呼び起こそうと躍起になっている点も興味を引きます。ただし単なる反ユタキャンペーンだけではなく、伊波普猷先生の有名な「ユタの歴史的研究」も3月から定期的に連載されて、読者に対して問題を提起する姿勢があったことも見逃せません。

この事件は前からすごく気になっていましたが、なぜユタを信じるか(友寄隆静著、1981年刊行)に当時琉球新報に記載された4回の裁判記録の口語訳がありました。ブログ主も当時の琉球新報の記事を浦添図書館で読んだことありますが、今回は友寄氏の労作であるユタ裁判の記録をブログ内に掲載します。

事の発端は1913年(大正2)2月11日に起こった那覇区東町で起こった大火災です。当時の東町は商業の中心で那覇区久米村にあった谷村商店から火の手があがり、たちまち東町に飛び火して最終的には410戸が消失する大災害になってしまいます。

そうなるとお約束の展開で、人心不安→魔除け札が飛ぶように売れる→ユタや三世相を呼んで祈祷する騒然とした雰囲気のなかで2月19日、仲地カマドさんが那覇署に検挙されるという事件が報じられます。(このニュースは1913年2月20日の琉球新報の記事に記録あり、ブログ主が浦添図書館蔵の記事で確認しました。)

検挙されたのは仲地カマドさんだけではなく、ほかにも粟国ウタさん(当時50歳)、山川カマドさん(当時20歳)など数人に上ります。仲地カマドさんの検挙の容疑は2月17日に「神のタタリで西町および辻も全焼する」と叫んで西町および辻遊郭を騒然とさせて人心を惑わせたことです。

具体的な内容は

2月17日の午後10時ごろ仲地カマドさん、具志堅マウシさん宅を訪ねる。

そこで「近頃神を信ずる心が足りないため、東町は大火に見舞われた。陰気七獄、陽気七獄、都合十四ヶ獄の拝所の水の神に祈願しないと、次は西町と辻が全焼する」と絶叫。

それを外で聞いた城間ゴゼイさん(当時44歳)が、びっくり仰天して西町に駆け込んで、仲地カマドさんの御告げを言いふらす。

その噂があっという間に広がり、西町が大騒然。

余りの喧騒に警察が驚いて調べたところ、17日の仲地カマドさんの絶叫が原因じゃね?と判断して19日にカマドさんを検挙。

19日の検挙後に、いったんは20日の拘留処分が下されたのですが、カマドさんがその処分を不服として、前島清三郎弁護士を付けて裁判を起こすという予想の斜め上を行く展開に当時の沖縄社会はこれまたお騒ぎになります。(続く)

SNSでもご購読できます。