【備忘録】琉球新報の堕落を象徴する社説

先月23日から今月8日まで開催された東京五輪は、ご存じの通り無事閉幕し、現在は24日からパラリンピックが絶賛開催中です。コロナ禍でコンディション調整が難しい中、アスリートのみなさんの奮闘には頭が下がるブログ主ですが、五輪開催によって社会にまん延した “不公平感” に乗じた琉球新報の社説には嫌な思いを抱いたので、試しに全文を書き写してみました。

ちなみになぜ嫌な思いを抱いたのか、最大の理由は下記社説には一度も “小池百合子東京都知事” のワードが登場しないからです。つまり政権批判それ自体が目的の低俗記事であり、目的と手段が入れ替わった最低の社説と看做しても誤りではありません。しかも書いた本人が “正義” に酔いしれているから質が悪い。それゆえに全文を読むのは苦痛かもしれませんが、そこは寛容の心で是非笑ってやってください。

まずは令和03年5月30日付琉球新報電子版〈社説〉です。この社説は同月26日付朝日新聞 “(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める” に勇気を得て掲載されたのは間違いありません。そしてもしも五輪開催中に事故が起こったときの “アリバイ言論” として掲載した面も否定できません。

〈社説〉コロナ禍での五輪 中止を決断すべき時だ

政府は(5月)28日、新型コロナウィルス対策である緊急事態宣言を9都道府県で6月20日まで延長すると発表した。会見で菅義偉首相は宣言下での東京五輪・パラリンピックの開催について「準備を進める」と述べ、観客を入れる方向で検討することも表明した。

だが宣言期限までに収束する科学的根拠はない。むしろ拡大が予期させる材料ばかりだ。感染力の強い英国やインド由来の変異株が広がる中、ワクチン接種は追い付いていない。世界を見ても接種が進んでいるのは欧米の一部だけだ。医療の逼迫は限界に近い。

こうした状況を踏まえ、五輪開催に国内外で強い不安の声が広がっている。菅首相は国民の生命や健康を最優先し、開催中止を決断すべきだ。

首相はワクチンを「切り札」として、7月末までに全高齢者への接種完了を目指す。だが12日発表の政府調査では市区町村全体の14%が7月末までに完了できないとしている。7月23日開会の五輪期間中、国民の大半が未接種だ。

米国の感染症の専門家は五輪開催の推進は「最善の科学的根拠に基づいていない」とし「中止が最も安全な選択肢かもしれない」と指摘する。9万人以上の関係者が集う五輪が「一大感染イベント」になる可能性に、世界から懸念の声が相ついでいる。

しかし首相はじめ国際オリンピック委員会(IOC)など関係者は開催に前のめりだ。開催ありきの発言や姿勢が国内外から批判を浴びている。共同通信による今月中旬の世論調査で約6割が中止を支持した。民意とかけ離れた祭典の開催に、なぜこだわるのか。

五輪に詳しい米パシフィック大のジュールズ・ボイコフ教授は理由は三つだとして「カネとカネ、そしてカネだ」と指摘する。そのほとんどが選手たちに使われず、大会の運営は放映、出資する人々の手に入ると説明する。米有力紙ワシントン・ポストはIOCのバッハ会長を「ぼったくり男爵」と呼んだ。開催に突き進む理由が一部関係者の利権だとすれば、言語道断だ。

現状での開催は意義を失っている。五輪憲章は機会の平等を掲げるが、コロナ禍で準備不足の選手がいるほか、医療従事者を五輪のために確保することにも不公平感がある。選手や住民との交流も難しい。今や政府が唱える「復興五輪」や」コロナに打ち勝った証」は空虚に響く。

野村総合研究所の試算では中止した場合の経済的損失は約1兆8千億円。昨年や今年初めの宣言下での損失約6兆円以上よりはるかに少ない。むしろ五輪が感染拡大を招いた場合の損失の方が大きい。

コロナ禍で生活困窮者が急増した。五輪費用を困窮者支援に充てる発想も必要だ。県出身者を含め選手にとっては残念な状況ではある。だが判断の先送りは事態の悪化を招く。論理性と柔軟性を欠き、一度決めたら止められない政治に国民の命は預けられない。

そして今月10付の社説です。無事閉幕したが故に、5月30日付社説との無理やり辻褄を併せた感が否めません。

〈社説〉東京五輪閉幕 多様性「遺産」に再生を

新型コロナウィルス禍の中で史上初めて1年延期となった東京五輪が閉幕した。

国際オリンピック委員会(IOC)は大会を成功と総括したが、額面通りに受け取れない。救急事態宣言下での開催を強いられ、感染は収束せず全国に拡大した。理念なき開催が分断を生み国民不在の様相を呈した。

では、東京五輪は何を残したか。アスリートたちの健闘は感動をもたらした。とりわけ県勢の活躍は目覚ましく、男子空手形で喜友名諒選手が県出身初の金メダルを獲得するなど次世代に夢と希望を与えてくれた。

同時に、アスリートたちは人種差別や性差別を許さない意思表示、独裁に抗議して亡命するなど「多様性」「人権」という五輪精神を体現した。それが今回の「遺産」なのかもしれない。

何のために、誰のための五輪なのか。なぜ、コロナ禍の中で開催するのか。「コンパクト」「復興」「コロナに打ち勝った証」「安全安心」。くるくる変わる五輪の理念の国民は振り回され最後まで大会の意義を見いだせなかった。

五輪の理念は大会前から色あせていた。招致のためIOC委員への贈賄疑惑に始まり、エンブレム盗作疑惑、森喜朗組織委員長による女性蔑視発言が相次いだ。女性タレントの容姿を売辱する開会式演出提案、音楽担当のいじめ問題、ディレクターが過去に演じたコントでホロコースト「ごっこ」が発覚した。人権感覚が欠如し外交問題に発展しかねない事態をまねいた。

新型コロナウィルスの急拡大が予想される5月、琉球新報は社説で、菅義偉首相に対し国民の生命や健康を最優先し、開催中止の決断を求めた。その後も選手や関係者、そして国民一人一人の命を守ることを最優先に大会中であっても重大な決断を辞さないことを再三求めた。

実際に、東京や沖縄でコロナ感染が爆発的に拡大し、医療崩壊が起きている。従来のウィルスより感染力が強いデルタ株の置き換わりについて専門家は大会前から警鐘を鳴らしていた。大会中に関東ではデルタ株の割合が9割に達したと推定される。

しかし、菅政権はワクチン接種一辺倒で、医療体制の拡充など効果的な対策を打ってこなかった。菅首相は大会開催と感染急増との関連を否定するが、とても無関係などと言えないだろう。

バッハ氏は「正しいタイミングに開催されたと自信を持って言える」と語ったが国民感覚と乖離している。本来の理念とあまりにもかけ離れた五輪を立て直せるのか。重い宿題を背負った大会だった。

これらの社説を読むと明らかに政権批判を前提として、それに併せて都合のいい事実を貼り付けて文章を構成していることがわかります。政権批判それ自体が目的ならではの手法ですが、ではなぜそこまで断言できるのか。それは8月9日から29日まで、コロナ禍下で開催された第103回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園大会)には社説はおろか金口木舌では全くといっていいほど言及していないからです。(菅政権やIOCよりも夏の高校野球大会主催者の朝日新聞社を信頼したのかそのあたりの事情は不明です)

つまり、この社説は琉球新報社として

政権批判につながらないイベントは論評に値しない

との立場を鮮明にしているわけで、ブログ主は有料のこの手の記事を読まされている購読者を心から憐れんで今回の記事を終えます。