キャンプ・シュワブ誕生の経緯

先日、我那覇真子さんの著作である『日本を守る戦い – 日本のジャンヌダルクかく語りき -』を読んでいる際に、気になる点があったのでちょっと調べて見ました。それは「第2章 – 沖縄の異常なジャーナリズム」の中でキャンプ・シュワブ基地ができた経緯について記載した部分です。ちなみに我那覇さんの著作を読もうと思ったキッカケは、長年の沖縄タイムス読者であるブログ主母から「我那覇さんって誰ね~?」という予想の斜め上を行く質問を受けたからです。余談はさておき、キャンプ・シュワブ誕生の一節、是非ご参照ください。

そういえば、移設先の辺野古既存基地についてあまり語られる様子がありません。ここは私(我那覇真子さん)の地元でもあるので、理解の一助となるような説明をさせていただきます。

この既存の基地とは、米海兵隊シュワブ辺野古基地の事で設営されたのが1959年です。

シュワブ基地にも又沖縄の不都合な事実があります。翁長現知事が、今いたるところで沖縄被害者史観をまき散らしています。その中でも米軍が銃剣とブルドーザーで土地を奪って基地を建設したというストーリーは、定番で、例外的な事柄を全体であるかのように語るのは、ほとんど詐欺の類いです。

シュワブ基地ができた経緯は、今ではほとんど忘れ去られています。なぜそうなったのか私もあまり気に留める事はなかったのですが、保守運動に参加するようになっていくつも気づかされた事があります。その1つが、歴史の風化に偏りがあるという事です。

つまり、ある勢力にとって都合の悪い歴史は、その風化忘却が早いのです。そしてある偏りをもったある種の歴史情報は、いつまでも鮮やかなのです。ここまでくるともうお分かりだと思います。これは、ある意図を持っての情報操作がなされていることを暗示しています。

反日反米を刷り込むものは、風化しないように扱われ、逆に左翼運動の広がりに支障をきたすと思われるものは、その時点に留まるように図られているのです。ここで私達が知るべき歴史の真実は、基地に苦しむステレオタイプの沖縄というイメージをお持ちの方にはびっくりものでしょうが、辺野古シュワブ海兵隊基地は、地元が積極誘致して出来た基地という事です。この誘致策は大成功で、辺野古地区は信じ難いぐらいに潤いました。

これを裏付ける話は、いくつもありますが、ここでは米軍側の資料を挙げます。それは、1956年当時の在沖米国民政府民政官レムニッツァー陸軍中将の副官兼通訳官であったサンキ浄次米陸軍中佐の手記です。

タイトルには「The Birth of a Marine Base」というもので、その中に久志村(現名護市の一部)の誘致活動が記されています。

当時の村長比嘉敬浩氏が再三陳情を米軍側に行っているのです。その度に久志村会議員全員の署名を携えており、その熱意が伺えます。交渉の中、陸海軍は基地増設は不用であったのですが、訓練場増設を必要とする海兵隊がこれに応じる事になりました。

その様ないきさつから地元辺野古とシュワブ基地は、はじめから大変友好的な関係にありそれは今も変りありません。

「事実は、新聞社説よりも奇なり」とはこの事で、「えっこれって本当ですか」という声も上げる方もいらっしゃるでしょう。「何ぼ何でもイメージが違いすぎないか」という声も聞こえてきそうです。あの熾烈な辺野古基地ゲート前の反対運動は一体どういう事だと誰しも思う事でしょう。

事実としてシュワブ海兵隊基地は辺野古区とその周辺にとっては重要な生活の糧であったわけで、現代でいうところの村おこしだったのです。昭和30年当時の辺野古地区は、貧しい寒村で生きる為には村に止まることができない程の現実があったのです。

この話を裏付けるものとして、元琉球政府行政府主席の当間重剛さん(1895~1971)の回想録、あるいは辺野古区が編纂した地域史にもその時の経緯が詳しく記載されていました。その経緯は大雑把に纏めると、

・当時のマリン部隊は兵舎不足に困っていた。

・そこで当間重剛氏が主席に就任(1959年11月11日)の翌月に、米民政府から久志村(現在の名護市久志地域)に対して628エーカーの土地の新規接収予告が出た。

・久志村側では村長以下、喜んで土地契約を結ぶ(1956年12月28日)

・翌年の1月8日、当間主席が久志村を訪れて、土地契約を結んだことに対する勇気を褒め称える演説をする。

・その後2度ほど本国より工事中止の命令が出るも、基地建設はおおむね順調に進み、1959年に完成。

この時の経緯を調べて面白いと思ったのは、米民政府側が久志村の要望に対しておおむね同意して基地建設が行われたことです。当間重剛回想録にも記載されていますが、道路建設は住民の耕作地を通さないように3度計画が練り直されました。あと補償やインフラについてもおおむね住民の要求が通っています(久志村側の要求は辺野古区が編集した地域史に詳しく記載されていました。)

同じ時期の宜野湾市伊佐浜や小禄村(当時)などでは確かに米軍による土地強制収用で地域住民と揉めに揉めたのは事実です(長嶺秋夫著『私の歩んだ道』など)。だがしかし、当時の久志村は例外で、地域住民と米軍が win-win の関係で共存して今日に至っているのです。だから現在の普天間基地の移設問題で抗議行動をしている(自称)市民の皆さんは地元住民から歓迎されていないのかもしれません。「島ぐるみ」あるいは「オールおきなわ」と唱えても、それはかけ声だけで、何事にも例外はあるといういい事例です。残念ながら辺野古反対運動の活動家には、この不都合な歴史的事実には耳もかたむけないでしょう。実に残念なことです(終わり)。


【参考】当間重剛回想録より抜粋

辺野古が軍用地契約 – 252 ページから –

主席に任命された翌月に久志村辺野古に628エーカーの新規接収予告がでた。シンプル・フィー(Simple Fee)。これを当時は単純封土権と訳していたが、軍はこれを設定するというのである。さあ、妙な奴がきた。沖縄の法律家は大方が大陸系法を学んでおり、アングロサクソン法とはトンと縁遠い、そこでああでもない、こうでもないと騒ぎ出し、法曹界が統一解釈を下そうと委員会までつくったが、結局結論を下せたかどうかは記憶にない。

辺野古へのシンプル・フィーに、土地を守る会総連合や市町村土地連合会が、事態の円満収拾に私の所に来たが、私としてはこのシンプル・フィーというのは次のように解していた。

つまり英米法解釈によると土地はもともと君主のものである。これを使用する者がいなくなると、その土地は国家や君主のものに帰する。米軍が土地をもはや必要としなくなったら、もとの持主に返すということになるからそれほどむつかしい考えはしなくたって良い、というわけである。

後で早大総長の大浜さんに聞いてみたら、やはり同じ解釈だった。大浜さんの話によると、それは日本の民法も同じであって、土地は使わなくなると自然と国家に帰ることになるというのである。ところで辺野古の住民は軍の土地接収に対してどういう反応をしめしただろうか。

12月28日、久志村の比嘉村長以下軍用地主は土地賃貸契約を結んだのである。これはプライス勧告が発表されて以来初のケースとして注目されたが、那覇や中部地区のあの一括払い反対、新規接収反対の声は久志村辺野古までは遠く及ばなかったのであろうか。

もちろん久志村としても、新規接収予告がきてさっそくそれに応じたわけでなく、いろいろ考えてのあげく土地の賃貸契約を結ぶにいたったにちがいない。那覇や中部地区で一括払い阻止運動が猛然と起こっている矢先、そうした住民の声に反して米軍の言う通りにするということはよっぽどの勇気がいる。その反面、米軍基地のあるところが繁栄し、電気水道もあるというような文化生活を送っているのをみると、せっかく訪れたチャンスを逃がして、永久に電気や水道にも恵まれない僻地生活を送ってゆくことはしのびないものもある。この両面をはかりにかけて比嘉敬浩村長は賃貸契約にふみきったのであろう。

私は久志村が、住民の怨さのまなざしを浴びながらも契約したことを、年が明けて1月8日久志村を訪れたとき、その勇気をたたえたことがある。一括払いといえばレムニッツァー大将が1957年1月4日、琉球の首脳を招いて、土地問題に関する米国の最終方針を発表したことがある。これは新規接収と一括払いはどうしても変えられぬ米国の方針である、というのだ。そして布令164号(土地収用令)にもとずいて、レムニッツァー声明から4ヵ月後の5月4日、那覇市の垣花、住吉、山下、鏡水一帯に総坪数25万6200余坪の土地に限定付土地保有権をとるための告知第一号が政府に送られてきた。

垣花一帯の市民は私が前にものべたとおり、一括払い賛成者も大分いた。そして、この限定付土地保有権の取得通知が来たときも、かなりの地主が一括払いを受け取って軍と契約をしたがっていたが、もうすでにその頃までには世間の一括払い反対の声があまりにもかまびすしく、まとまった金がほしいという声さえ出せなくなっていた。ただ全島が反米運動のるつぼの中に包まれる前には、かなり一括払いを取った地主がいたものだ。地料の一括払いには農連も賛成であったし、宮城仁四郎君ら農業専門の経済人も賛成であった。私自身一括払いにはあえて反対ではなかったから、垣花にある弟重民の土地に対しては一括払い第一号をとらした。あのころさかんに土地を買い占めた男もいたという話だ。

しかし、私は琉球の主席である。琉球の現状は一括払いに反対の地主が多い。それでも5月24日、米陸軍次官のフェスカン氏らが来たとこは一括払い中止の住民の強い要望があることも訴えた。これに対しフェスカン次官は「それは米国の既定方針だから変更できぬだろう」と答えていた。

辺野古に工事中止令 – 254 ページから –

久志村に新規接収を予告された土地の大部分が村有地であったため知らんが、比嘉村長以下議員、関係地主が喜んで賃貸契約を結んだ。ところが、契約を結んでから3ヵ月後に、とつぜん工事中止の命令がでた。この工事はマリン隊の地近代兵舎を建てようというもので、その頃まではマリンはコンセットに住んでいたが、それでも足らず新たに移動して来た部隊はテントに住むというしまつであった。マリンの恒久兵舎ができるというのでマリン部隊はもちろん国場組や、久志村の地元民も大いに喜んでいた矢先、ワシントンから工事中止の命令が来たのだから大騒ぎしたのもムリはない。比嘉村長らはバージャー民政官はじめ軍当局に理由を質してみたが、ワシントンで検討中ということしか分からなかった。

そのうち元副長官のオグデン少将が米陸軍監察総監として来島中に中将に昇格したり、モーア副長官が立法院にメッセージを送って防共法の制定を勧告したり、ハワイから沖縄戦没者13年忌法要のため代表団が来たり、垣花一帯に限定付土地保有権取得通知が出たりしたが、私は5月8日、立法院本会議で主席就任初のゼネラルメッセージを発表して、その翌日は副長官機で宮古、八重山視察の旅にでた。ちょうど八重山視察中政府から「辺野古基地工事中止解除サル」という電報が入った。私もそれじゃ早速祝電を打っとけと言って久志村長あて、工事再開を喜ぶむねの電報を打たしたが、今思えば、全島一括払い反対のときに、祝電を打ったというのはおかしな話ではある。まあこうして辺野古のマリン基地はできることになったわけだが、マリンも兵舎ができ上がりしだい兵隊を移動させたが一方、久志村もそれにつれて道路もでき区画整理もでき上がった。部隊の近くに町ができると基地の町になるわけだが、軍部の方はさいしょから、いかがわしい場所ができるのを警戒して私のところにも、また久志村長のところにも注意を促しに来ていた。久志村の辺野古基地はできることになったが、まずキャンプに至る道路をどうするかというのが問題になった。軍としてはなるべく経費がかからぬよう、しかも直線道路がほしい。しかしそれでは海岸線を通すことになり、そうなると大部耕地がつぶれる。ところが村民はキャンプ用の土地は賃貸契約したが、道路はなるべく耕地を避けてくれという。こうして設計を変更すること三度。やっと住民の要望にかなうような道路ができたが、これは軍というものに対し、民政官バージャー准将の抑えがきいたからだと思う。その点久志村民はバージャー准将の英断に感謝して良い。

久志村民の“耕地はつぶすな”で面白いことがあった。バージャー准将が村民の意を体して道路を山手の方にきめたら、こんどは村民が自分達の部落を通してくれという。商店の誘致策を考えているのだ。ところがそうなると耕地がつぶれることになる。今までの言いぶんはまったく筋が通らないじゃないか、矛盾した言い分をするな、と私は比嘉村長を呼んで注意したが、彼も「それは分かっているが……」と言葉をにごしていた(中略)。

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