伊地知貞馨の復命書

今回は明治6年(1873年)5月31日、伊知地貞馨(いじち・さだか)によって朝廷(明治政府)に提出された復命書(命令に従ってした事の経過・結果を命令者に報告)について言及します。史料は『琉球所属問題関係資料第六巻琉球処分(上)』から抜粋しました。ブログ主が試みに作成した読み下し文も併記します。読者の皆様、是非ご参照ください(原文は読み飛ばしても可)

復命書

昨年来朝之琉球使臣同行琉藩ヘ渡海藩王及ビ三司官ヘ使臣御接待之次第冊封ヲ賜候事共薦與申入宇内ノ形勢事情マデモ致説得固陋之弊ヲ一掃シ百事煩ヲ去リ簡ニ附時世ニ致勾當候様有之度懇々申述候處藩王始要路之諸官先般之御優待ヲ感佩並ニ申述候條件等了承仕將來方向ヲ定メ朝旨奉戴永年ニ至リ違犯仕間敷段承届候何分海中ノ孤島是迄鹿兒島清國ヘ致往来候マデニテ是迚往来致候者共人別ニ並ビ候得者百人之壹人ニ不過兼テ之聞見狭ク一小島ヲ以自分足レリト致候氣味有之一体温柔遲鈍之資質曾テ激發卓越之者無之偏固狭少舊法ヲ墨守候風俗故一時ニ釋然與申塲ニ者参リ兼候得共漸ヲ以テ致示論候半者御指令通罷成可申哉與存候別紙取調之條件相添此段御届申上候也

明治六年五月三十一日 外務六等出仕 伊地知貞馨

外務少輔 上野景範殿

読み下し文、およびブログ主による解説は下記参照ください。

昨年、来朝(らいちょう)の琉球使臣〔に〕同行〔し〕琉球藩へ渡海、藩王及び三司官へ使臣御接待の次第、冊封を賜(たまわ)りそうろうことども薦与(せんよ=賞賛)申し入れ、宇内(うだい=世界)の形勢事情までも説得致し、固陋の弊を一掃し百事煩(わずらい)を去り、簡に付き時世に勾当(こうとう=仕事をひきうける)そうろうようこれありたく懇々と申し述べそうろうところ、藩王始め要路の諸官、先般の御優待を感佩(かんぱい=感銘)並びに申し述べそうろう条件等〔を〕了承〔し〕、将来の方向を定め、朝〔廷の〕旨奉戴(ほうたい=遵守)〔し〕永年に至り違犯(いはん)仕(つかまつ)る間敷(まじき)段承届(うけとどけ)そうろう。

*明治5年(1872年)、伊地知貞馨が琉球国王尚泰の名代として来朝した使者(伊江王子等)の帰任に同行して琉球藩を訪れ、藩王や要路の諸官(三司官などの王府高官)などに世界情勢を説明し、朝旨(ちょうし=今回の訪問の趣旨)について琉球藩首脳から了解を得たという内容です。

何分海中の孤島〔にて〕これまで鹿児島〔と〕清国へ往来致しそうろうまでにて、是迚(これとても)往来致しそうろう者ども〔は〕人別に並びそうらえば百人の一人に過ぎず、兼ての聞見(ぶんけん)狭く、一孤島を以〔て〕自分足れりと致しそうろう気味これあり、一体(いったい=総じて)温柔遅鈍の資質、かつて激発卓越の者〔は〕これなし。偏固狭小〔にて〕旧法を墨守致しそうろう風俗故に、一時に釈然(しゃくぜん)と申し場には参りかねそうろらえども、漸を以〔て〕示論致しそうろう、半は御指示通〔り〕罷り成るべく申し哉(かな)と存じそうろう。別紙取調の条件〔を〕相添〔え〕、この段届け申し上げそうろうなり。

*(琉球藩は)海中の孤島で鹿児島や清国に渡航した人ですら100人中1人程度で、そのため見聞が狭く、シマの世界だけで物を考える気質があり、総じて温和でのろまで、(こころ激しく)奮い立つ卓越した人物はいない。旧法(旧慣習でもいい)を墨守する風俗ゆえに、一気に改革を推し進めることは不可能も、ゆっくり時間をかけて説得すれば、指示の半分程度は達成できるかもしれない、別紙に取調(現地状況の説明?)書を添付し、お届け申しあげた次第であります…という感じの内容です。

この復命書のポイントは、伊地知の説得に対して琉球藩王および高官たちから了承を得たことです(藩王始要路之諸官先般之御優待ヲ感佩並ニ申述候條件等了承仕將來方向ヲ定メ朝旨奉戴永年ニ至リ違犯仕間敷段承届候)。しかも永年にわたって朝旨(朝廷の趣旨)は遵守し違反しませんとの言質を取っているではありませんか。ただし伊地知は藩王および高官たちが本当に朝廷の趣旨を理解できたのか、あるいは理解しても諸政策を実行できるのか疑問視しています。

ちなみに琉球藩が伊地知に提出した誓約は下記参照ください(原文はスルーしても可)

【原文】形勢一變開明之今日ニ臨候テハ各活目有之百事煩雑ヲ去リ易菅ニ附朝旨遵奉闔藩之庶民ヲ致敎育候様御示論之趣致承知御尤ニ候深相心得朝旨奉戴永年ニ至リ違犯仕間敷藩王ヘモ相達此段御請申候也

明治六年四月十八日 浦添親方印 川平親方印 宜野灣親方印 伊江王子印

在琉球 外務省六等出仕 伊地知貞馨殿

【読み下し文】形勢一変開明の今日に臨みそうらいては各〔々〕刮目これあり、百事煩雑を去り、易管(物の見方がかぎられてせまいこと)に附(付)き、朝〔廷〕の旨(を)遵奉(従うの意)し、闔藩(琉球藩のこと)の庶民を教育いたしそうろうよう御示論の趣(おもむき)、承知いたし御尤(ごもっとも)にそうろう、深く相心得、朝〔廷〕の旨(を)奉戴(し)永年に至り違犯(違反)仕る間敷(まじき)、藩王へも相達しこの段お請け申しそうろうなり。

明治六年四月十八日 浦添親方印 川平親方印 宜野灣親方印 伊江王子印

在琉球 外務省六等出仕 伊地知貞馨殿

実は以前当ブログにて上記誓約文の記事を掲載しましたが、今回改めて読み直すと確かに朝廷(明治政府)の方針は遵守し永久に違反しませんと記載されてます。そうなると政府の通達を遵奉しないと朝命違反となり、相応の処分を下されることになります。この誓約書を始めて目にしたときは「えっ?本当に??」と思いましたが、当時の琉球藩の首脳たち(摂政三司官)はなんでこんな誓約書を迂闊にも提出したのでしょうか?彼らは本当に明治維新の本質を理解していなかったのかと痛感せざるを得ず、こんな連中がトップにいたら、そりゃ国は滅びるわと妙に納得した次第でもあります(終わり)。

 

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