新城喜史さんとはこういう人なんだと思った件

今回は読者のみなさんお待ちかねの沖縄ヤクザ関連の記事を提供します。第1次から第4次の沖縄ヤクザ抗争を調べると必ずといっていい程”ミンタミーヨシフミ”という人物が登場します。コザ派→山原派の首領であり、昭和45年12月に結成された沖縄連合旭琉会理事長新城喜史(しんじょう・よしふみ)さんのことですが、彼に関して興味深い記事を発見しましたので紹介します。

彼は昭和4年(1929年)大宜味村生まれで実家が貧しいため小学校を卒業していないとの言い伝えがあります。戦後いつ頃からコザ派に加わったか不明ですが、彼の名が世間に知れ渡るのは昭和31年(1961年)9月に起こった那覇派首領又吉世喜のリンチ事件以降からです。

実は彼に関する新聞史料は少なく、伝聞情報をどのように取り扱っていいのかむつかしい部分がありますが、これから紹介する記事は新城さんの性格をよく表していると見て間違いないでしょう。読者の皆さんぜひご参照ください。

組織暴力団 – 旭琉会理事長を逮捕

飲食店で乱暴 – 全国手配に観念 那覇署に自首

店じまいした飲食店に仲間2人ではいってきて「焼きとりをくれ」と注文し「時間だから」と断わられると、腰かけを投げつけておどして逃げていった組織暴力団の大幹部が5日午後、那覇署に暴力行為容疑で逮捕された。つかまったのは沖縄連合「旭琉会」の理事長・新城義文(42)=美里村美里537。新城は犯行後、台湾と本土に逃げていたが、逃げきれないと観念して5日、本土から帰り、同署に出頭してきた。

那覇署の調べによると、新城は仲間の旭琉会理事・那覇市牧志の1の147、島袋為夫(39)と共謀して、さる11月2日午前1時ごろ、同市松山3の1の1、大衆酒蔵「養老の滝」に閉店してのち現われ、はいってくるなり、経営者のAさん(30)に理由もなく「この店をつぶしてやろう」と言いがかりをつけた。これをみていたコック見習いのBさん(19)が「もう閉店です」と言ったことに腹をたて、新城がいきなりカウンターにおいてあった腰掛けを持ち上げるなり、Bさんに投げつけAさんに「君はここの責任者か。お前は沖縄人か。外でけんかしよう」とどなりつけ脅迫した。

同署はAさんらの訴えを受け同日3日、暴行容疑で新城と島袋宅の家宅捜索を行ない島袋は逮捕したが、新城は内縁の妻と一緒に台湾に高飛びしていた。その後、新城は台湾から本土に逃走したが、同署では新城が本土にいるとの情報をキャッチ、逮捕状取って全国委指名手配していた。

一方、島袋は同署から同署から送検され、20日に起訴されたので、弁護人を通じて保釈申請を行ったが「麻薬と暴力団事犯は厳罰主義を取っていく」という那覇地検の強い姿勢で同日25日、那覇地裁が保釈許可申請を却下した。

新城はこれまでにも脅迫、暴力行為、武器・弾薬の不法所持などで10回の逮捕歴がある。山原派と那覇派が合併する前は山原派首領をつとめていた。現在も旭琉会の最高幹部の地位にある。那覇地検が暴力団事件について”保釈拒否”の強硬姿勢を取っている中で、新城は「逃走しているよりは自ら出頭すれば保釈は認められるだろう」との判断に立って出頭してきたものと同署ではみているが、同署では、お礼参りの恐れがあるところから、検察庁ともタイアップして、組織暴力団に対し、きびしい態度でのぞむ構えだ。

引用:昭和47年12月7日付琉球新報9面

上記引用から、彼は「酒乱、タンチャー(短気)、テーゲー」の3連コンボをぶちかますような性格であることが分かります。新城さんに限らず「酒を飲まなければいい人」あるいは「短気おこさなければいい人」というタイプは普通にいますが、彼は別格で子分たちは取り扱いに苦労したはずです。とくに当時ボディーガードをつとめていた富永清さんは大変だったかと思われます。

沖縄の組織暴力団はその時代に合ったタイプの人物がトップに君臨しています。新城さんの場合はアメリカ世の時代に求められた人材ですが、明らかに復帰後の社会には必要とされないタイプです。それ故に昭和49年(1974年)10月に射殺されたのも彼の運命だったのではと痛感せざるを得ないブログ主であります。(終わり)

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