昭和のセンス

今回は沖縄ヤクザに関連して、昭和の新聞記者のセンスが伺える記事を1つ紹介します。以前、当ブログでも紹介した昭和50年(1975)2月に起きた「楚洲事件」に絡む続報ですが、現代ではとても思いつかない「題字」が極めて印象的なので全文を書き写しました。

その前に、楚洲事件についておさらいをすると、昭和50年2月14日、上原一家の組員3人が借金取り立てのため嘉手納に赴いたところ、旭琉会の組員に拉致され、行方不明になった事件です。その後の調べで彼ら3人は国頭村楚洲の山中でピストルと短銃で斬殺され、遺体は山中に埋められたことがわかり、主犯格の友寄倉茂(当時34)は昭和52年(1977)那覇地裁で死刑が求刑(戦後6人目)された残虐事件として知られています。

この事件の初報は昭和50年(1975)7月24日の琉球新報夕刊でしたが、翌25日の同朝刊の記事がセンセーショナルな内容で、初めてこの記事に目を通したブログ主も驚きを禁じ得ませんでした。マスキングを施してますが、同記事をアップしますのでご参照ください。

個人的には琉球新報史に残る傑作の部類に入ると確信している題字は以下の通りです。

この題字の凄さは、一目みて事件の残虐性とアンダーグラウンド社会に属する組織の異常さが直観的に理解できる点です。もちろん記事本文もチェックしましたが、この記事を執筆した記者の実力は素直にすごいの一言です。正直なところ、文章の上手さなら現代の記者のほうがレベル高いのですが、「訴える力」すなわち「筆力」は昭和の時代が優れていると言わざるを得ません。

現代社会はこの手の記事内容を受け入れられない “雰囲気” があるのも事実ですが、昭和のセンスはもっと評価されてもいいと確信しているブログ主であります。全文を紹介しますので、読者の皆さん、是非ご参照ください。

虚空をつかむ手…… はい出る嘉陽メッタ刺し

現場は楚洲部落の県道13号線から村道を南へ約1,300㍍奥に上りつめた山中。通称楚洲の長尾原というところで見晴らしがいい高台。ここで残忍な殺人事件があったとはとても考えられない美しい山原の自然が広がっている。

ギラギラ照りつける炎天下、発掘作業は24日午前10時から県警捜査二課、名護署など総勢50人の捜査員で始められた。村道から20㍍ほど下った斜面に殺された3人は埋められていた。

一面、シイの木のかん木がおい茂り昼でもうす暗いところで3人は縦1.5㍍、横1㍍、深さ約1.8㍍のダ円形の穴に、折りかさなるように埋められてあった。

ショベルなどで、たん念に土を掘り出しながら発掘作業は慎重に進められた。作業着手から約2時間の午後1時ごろ空を手でつかむように突き出された人間の手が土の中から現れた。赤いジャンパーのような上着と黒っぽいズボンを着けた男が1番目に堀り出された。

嘉陽宗和のあまりにも変わり果てた姿だった。あお向けで、1番上に埋められていたため腐乱が最もひどかった。赤い上着には短刀で突き刺されたあとが無残に残って3人のうち最もむごい遺体だった。事件当夜、3人は自分らが埋められる墓となるダ円形の、この穴に放り込まれた。そして4~5丁の短銃で弾がつきるまでうたれた。倒れた3人は赤い血のしみ込んだ土が無残にもかぶせられた。しかし、自供によると嘉陽はその後も生きており、おおいかぶせられた土をはねのけて穴からよろよろはい出した。約10メートルの斜面をころげ落ちるように逃げようとした。すぐにつかまり「心臓を刺せ」という加害者らの狂気の中、短刀と心臓などメッタ刺しした。そのうえこめかみにとどめの一発を撃ち込まれて改めて穴に放り込まれた。

嘉陽の次は、うつぶせになった仲宗根と前川の2人が堀り出された。嘉陽ほど腐敗は進んでなかったが、2人の識別はできなかった。3人はこの現場で比嘉らに短銃を突きつけられ「勇吉の居所を知っているだろう。早くいえ」とおどされた。「勇吉の居所は知らない」と答えると3人に加害者グループは、突きつけていた短銃数丁を雨アラシのように乱射した。

夏の強い日ざしのもとにあばき出された犯行現場は生々しく暴力団同士の殺し合いとはいえ、常人には考えられない、むごらたしい様相だった。発掘作業は同日午後5時、終わった。解剖は那覇に3人の遺体を運んで行うことになった。(昭和50年7月25日付琉球新報朝刊11面)

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