俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その1

去る(平成29年)12月13日に起こった飛行中の米軍へリの部品が普天間第二小学校へ落ちた事件に関連して、ブログ主が普天間第二小学校の歴史を調べてみましたので掲載します。普天間第二小学校の歴史(とくに移転問題)に関しては裏づけなしの噂話が多すぎるので、今回は公開された情報のみで歴史を振り返ります。

普天間第二小学校の分離開校は我が宜野湾市では初のケースで、その理由は人口の急増です。そのため昭和37年(1962)の市制施行からさかのぼって学校の歴史を鑑みるのがよいと考えます。

・昭和37年(1962)7月1日、宜野湾村が市に昇格。理由は人口の増加で、昭和30年(1955)に18,469人の人口が5年後の昭和35年(1960)に3万に激増し、市制昇格の条件を満たしたから。

・昭和39年(1964)1月1日、従来の23区に変わって20の新行政区が誕生(23自治区20行政区)。この時に人口増を理由として、普天間と野嵩が分割され、普天間1区、3区、野嵩1区、2区、3区が誕生。

この2つの事実は普天間第二小学校の新設を語る上で重要で、宜野湾市の人口増(とくに普天間、野嵩地区)の結果、普天間小学校は昭和43年(1968)ごろには児童数2400人余、54学級の沖縄第一のマンモス校になってしまいます。そして昭和43年に琉球政府の中教委(中央教育委員会)からの認可を受け、昭和44年(1969)4月に普天間第二小学校が開校します(このときは校舎建築中のため普天間小学校内の分離開校)。

ちなみに建設許可が下りたのは同年8月で、その後琉球政府とすったもんだがあるも(詳細は割愛)、昭和46年(1971)に校舎完成、ここまでが開学の流れです。

実は普天間第二小学校は児童通学の点から考えると理想的な立地にあります。(指定通学区域は普天間三区・新城・喜友名・伊佐の一部、下記URL参照)。だがしかし、唯一の欠点が隣接する普天間基地の存在で、はやくも昭和49年(1974)3月1日のPTA新聞にも『爆音対策』の記事が掲載されていました。

http://www.city.ginowan.okinawa.jp/cms/organization/gakumuka/archives/koukumap/gakkouku.daini.pdf

ちなみに学校の移設が検討されるきっかけになったが、昭和57年(1982)8月19日の訓練中のヘリ(UHー1N)が基地内に墜落した事故(場所が普天間第二小学校からわすか200m余だったため大問題になった)で、その後校舎の老朽化という問題も加わって、昭和61年(1986)6月1日のPTA総会で、普天間第二小学校の早期移設が始めて採決、昭和62年(1987)5月21日のPTA総会で早期移転に関する陳情を決議、そして宜野湾市長や国会議員などに陳情を繰り返しています。その動きは主な部分を当時のPTA新聞から抜粋すると、

・昭和62年5月21日、本校PTA総会で早期移転に関する陳情を決議。

・同年5月29日、(宜野湾)市長に陳条文を手渡す。市議外議長、市教育長にも手渡す。小渡三郎衆議院議員の自宅を訪ね、口頭で陳情し、後に陳情文を秘書を通じて届ける。

・同年8月11日、大城真順参議院議員の那覇事務所を訪ね、陳情文を手渡す。

・同年8月11日、上原康助衆議院議員来校、陳情文を手渡す。

・同年8月11日、志村恵(県議会議長)を議長室に訪れ、陳情文を手渡す(ちなみに志村氏は宜野湾出身の県外議員で普天間第二小学校初代PTA会長)。

・同年8月、喜屋武真栄参議院の自宅を訪れ陳情文を手渡す、宮里松正衆議院議員の那覇事務所を訪れ、陳情文を手渡す、玉城栄一衆議院議員来校、事情聴取、陳情文を手渡す。

・同年8月19日、第109回国会、沖縄及び北方問題に関する特別委員会(第二号)において上原康助、および玉城栄一議員から、普天間第二小学校の移設問題等に関する質問あり。

ほか昭和63年(1988)4月14日に宜野湾市議会が普天間第二小学校の早期移設を要請決議しています(正確には『基地解放等に関する要請決議』の6項目のなかに普天間第二小学校の早期移設が含まれている)。

だがしかし、普天間第二小学校は「諸々の事情で実現しませんでした(第72号PTA新聞)」のため、平成4年(1992)にPTA臨時総会で「現在地での校舎前面新築」を決議し、市に要請。平成8年2月13日に新校舎が完成して現在にいたっています。

この「諸々の事情」が公開された資料ではよく分からず、現在様々な憶測が流れている状態ですが、次回はこの部分について少し検証していきます(続く)。

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