沖縄のマスコミは本当に偏向しているのか

先日よりブログ主は県民投票に関するニュースを精力的にチェックしています。1月13日付沖縄タイムスの一面記事『自民系衆院議員の作成資料に県民投票「否決」への道筋 勉強会で配布』を始め、読者の投稿記事などを確認しているうちに不可解な点に気が付きました。それは沖縄二紙(沖縄タイムス、琉球新報)が県民投票を推進する方針で記事を配信していることは理解できますが、不参加を表明した5市(宜野湾市、沖縄市、うるま市、宮古島市、石垣市)を評価あるいは擁護する記事を一つも掲載していないことです。

この事実は、県民投票の報道に関する限り沖縄メディアは「言論の自由、責任、公正、気品を堅持」しているとは言い難く、著しく不公平な報道に従事していることの傍証になります。マスメディアは審判者ではないので中立性を保持する必要はありませんが、社会の公器である以上は「公平(フェア)」の原則は維持しなければなりません。だがしかし普天間基地の辺野古移設問題など一部に関しては明らかに”偏向”と見做されてもおかしくない報道姿勢に従事しています。これはいったいどういうことでしょうか。

マスコミの体質はいまも昔も “啓蒙”

明治26(1893)年9月15日に沖縄初の新聞『琉球新報』が誕生します。当時の新聞を参照して印象的なのは「我々が沖縄社会を正しい方向に導く」という強い自負、すなわち”啓蒙”という発想で記事を配信していたことです。琉球新報誕生当時は開化党(新思想)と頑固党(旧思想)が先鋭に対立して沖縄社会が分断されていた時代ですので、新思想の代表格である琉球新報の論調が著しく啓蒙主義の色彩を帯びても不思議ではありません。

問題は100年以上たった現代においても沖縄のマスコミは「我々が社会を正しい方向に導く」という啓蒙主義の方針で記事を配信していることです。明治時代と違って、現代では”個人”という概念が確立しています。詳しく説明すると「価値判断は個人で行っても構わない」という “内面の良心の自由” が現代の沖縄社会に浸透していますが、この概念は明治時代にはありません。

それ故に明治時代であれば啓蒙主義のスタンスで記事を配信しても、それは時代に合致した方法であったと言えますが、個人の概念が確立した現代では「正しい方向に導く」という記事は「上から目線だ」と敬遠されるのがオチです。言わば内面の良心の自由と啓蒙主義は極めて相性が悪い、そこに気が付かずに記事を配信しているのが沖縄二紙の残念な現実なのです。

“内面の良心の自由” なき “言論の自由” の恐ろしさ

我が沖縄社会に”内面の良心の自由”という観念がもたらされたのは比較的新しく、昭和47(1972年)年5月15日に本土復帰して、日本国の施政権下に置かれてからです。日本国憲法が沖縄県に適用されて、第19条の内面の良心の自由の項目が認知されてから47年しか経過していません。

つまり明治12(1879)年の廃藩置県から本土復帰の昭和47年まで、沖縄社会は “内面の良心の自由” なき “言論の自由” の世界であり、これに啓蒙主義が加わると、とんでもない弊害が発生します。それは「正しい方法に導く」という信念のもとに言論の自由を駆使して、個人の内面に無制限に介入することができることで、これが内面の良心の自由なき言論の自由の恐ろしさです。

現代社会は価値判断は個人で行うという発想が社会全体に行きわたっていますが、本土復帰以前はそうではなかったことを理解していただきたいのです。そして今も昔も啓蒙主義のスタンスで記事を配信している沖縄のマスコミが復帰後の社会の変化に鈍感で、従来通りの「上から目線」の記事を社会に垂れ流していることが結果的に”ネトウヨ”を大増産することになってしまったのです。

沖縄のマスコミと “ネトウヨ” はコインの裏表

今年に入って沖縄二紙は “ファクトチェック” の記事を掲載するようになりました。この特集記事も根底には啓蒙主義、誤解を恐れずに言うと「読者では判断できないから俺たちで正してやろう」という発想があります。いかに沖縄メディアが大衆の叡智を信用していないかの裏返しと言っても過言ではありません。

このような態度に激しく反発する人たちが結果として “ネトウヨ” と呼ばれる社会階層を形成したのです。言い換えると既存マスコミがネトウヨの生みの親になりますが、この点を全く考慮せず、ネット上のネトウヨの言動を紙面で批判しても何の解決にも至りません。逆効果になるのは目に見えています。

ハッキリ言えば沖縄二紙を含む既存のマスコミが従来の啓蒙主義的な体質を改めれば自然とネトウヨ階層は消滅しますつまりマスメディアは情報発信のみに徹し、価値判断は読者にゆだねるスタンスを全面的に打ち出せば一番よいのですが、既存マスコミの経営体質が急速に悪化している現状では急激な体質改善は極めて難しいと言わざるを得ません。ネトウヨ階層 vs 既存マスコミの構造で従来からの購読者をキープするしか方法がない、これがマスコミの本音で見ても誤りではないでしょう。

啓蒙主義のスタンスを捨てない限り “偏向” の誹りは免れない

ここ数日の県民投票に関する沖縄タイムスの記事をチェックして印象的なのは、「投票の権利を奪うな」という論調一色に染まっていることです。具体的には識者、専門家、および読者の投稿欄が「全県実施」の論調のみで、不参加を表明した市長や勉強会の資料を作成したと報じられた宮崎政久衆議院議員を擁護する記事は一つも配信されていません。

100万を超える沖縄県民すべてが県民投票に賛成しているわけはないのです。ブログ主から見れば「辺野古」県民投票の会および不参加を表明した5市の首長どちらも正論を述べてますが、新聞社が一方的に片一方の主張を正義と見做してその言い分のみを報道することが果たして”正しい”ことなのか。情報の受け手である読者を本音では信用せず、「導いてやろう」という立場が社会から浮いた存在になりつつあることを自覚していないのかと突っ込みたい気分になります。

新聞社が行う「ファクトチェック」は自分たちが導く方向を妨害する言動を取り締まるという意味と見做して間違いありません。このような上から目線の態度、そして自分たちのポリシーに迎合する御用論者の論説しか掲載しない報道姿勢を貫くのであれば “偏向” の誹りを免れることは出来ないし、そして沖縄の既存メディアが新元号時代を生き残ることは極めて厳しいのではないか、ブログ主はそう判断せざるを得ません(終わり)。

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