琉球・沖縄の歴史上最悪の布令

早速ですが、比嘉春潮著『沖縄の歴史』の一節をご参照ください。

1861年(尚泰14)年正月26日、首里王府は「御国元(薩摩)で小銭が少なくなったので、銅銭一文に鉄銭二文引合で御蔵の収入支出・領内一般通用することになった。当国でも御国元同様の引合で通用を仰せ付けられたについては、諸座諸蔵は座検者で取締り、首里泊那覇久米村は横目・惣横目、田舎は小横目で取締ることにする。もし違犯の者があったらそれぞれ処罰する」という布令を出した。昨日まで同価値で通用していた銅銭と鉄銭が、今日から二と一の割合に通用価値が変動したわけであった。これを文替(もんがわり)と称した

(中略)沖縄の通貨については貢糖制の起源のところでも触れておいたが、中国から来た明銭の永楽通宝、洪武通宝と清銭の乾隆、道光、咸豊の各通宝に、本土からの寛永通宝が流通していた。固有の鳩目銭もあったが、これは近世は冊封使渡来の時、寛永通宝の通用によって薩琉関係が暴露するのをおそれて、中国人の目に触れる所だけで使ったもので、平常は王府の倉に退蔵された特殊の通貨であった。しかし沖縄の銭勘定はこの鳩目銭本位で、17世紀の70年頃から、銅銭1枚即ち本土においての1文が鳩目銭50枚に当たることになって、銅銭、鉄銭の一文銭のことを五十(ごじゅう)。2枚で百(百文)、20枚で1貫と数えていた(69.文替り・琉球通寶より抜粋

この文章は文久・慶應年間(1861~1868年)に起こった銅銭と鉄銭の交換比率の変更について述べたものです。わざわざ当ブログで紹介したのは理由がありまして、実はこの布令がきっかけで当時の琉球経済は壊滅の憂き目を見ることになったのです。そしてこの出来事はなぜか既存の歴史書には触れない、あるいは触れたがらない傾向があります。ちなみに上記の布令の原文は東恩納寛惇著『尚泰候実録』に掲載されていますので、(ブログ主作成の)読み下し文と合わせて紹介します。

【原文】御國元小錢無多事至て不融通に付銅錢壹文に鐡錢貮文宛引合にて御蔵に御入拂幷御領國中一統通用被仰付候由此節琉球館より御申越之趣有之候然者御當國之儀も當時御藏を始め世上京錢至而不自由差遣候砌にて御國元同様の引合を以て取遣被仰付候間少も無難澁通用可致候右に付諸座諸藏は座檢者にて取締首里泊那覇久米村は横目惣横目田舎は小横目にて可致見締候乍此上不守者於有之は其節々形行に應じ屹與御咎目可被仰付候各聊無取違嚴重相守候様支配中不漏可申渡候右御差圖にて候以上

咸豐十一年辛酉正月二十六日 大村里之主親雲上 御物奉行

【読み下し文】御国元(=薩摩藩)小銭なく多事至って不融通に付、銅銭一文に鉄銭二文引合(=交換比率)にて御蔵に御入拂い、幷に御領国中一統(=統一)通用仰せ付けられそうろう由この節〔は〕琉球館より御申越しの趣これありそうろう、しかれば御当国(=琉球のこと)の儀も当時御蔵を始め世上(せじょう)京銭(きんせん=劣悪な銅銭)〔に〕至而(いたって)不自由差し遣えそうろう砌(みぎり=時節)にて、御国元同様の引合を以て取遣い仰せ付けられそうろうあいだ、少しも難渋なく通用いたすべくそうろう、右に付諸座諸蔵は座検者にて取締り、首里・泊・那覇・久米村は横目惣横目、田舎は小横目にて見締まらせそうろうながら、この上守らず者おいてこれありはその節々形行に応じ屹〔度〕(きっと=かならず)御咎め与えるべく仰せ付けられそうろう、各いささか〔も〕取違いなく厳重に守りそうろう様支配中漏らさず申し渡すべく右〔の〕御差図(さしず)にてそうろう以上。

補足として寛惇先生の『尚泰候実録』の153㌻から当時の経済状況を記した部分を抜粋します。

元来銅銭鉄銭とも同価(交換比率が1:1であること)を以て通用せられ、等しく1文を以て鳩目銭50文に抵用せられたりしが、是に銅銭交換歩合の変動生じてより以来、計算の上に延銭、詰銭の別を生ずるに至れり。即ち鉄貨を本位とするを延銭勘定と云ひ、銅銭を本位とするを詰銭勘定と云う。然れども市価(市場価格)は銅貨を本位として立てられたり。

おおざっぱにまとめると、琉球の市場価格は銅貨を本位にしていること、ただし実際の支払いは鉄銭でもよく、その交換比率は1対1であったことになります。鉄銭が流通した理由はおそらく琉球経済に対する銅銭の通貨供給量の不足を補うためと考えられますが、一般庶民は鉄銭を用いて商品購入あるいは商取引を行っていました。

そうなると銅銭と鉄銭の交換比率が1:1から1:2になると、実質的に物価が2倍に跳ね上がることになり、一般庶民の生活は大打撃を受けることになります。しかもこの交換比率、7年後には1:32まで下落して鉄銭は事実上価値を失い、琉球経済は本当に壊滅してしまったのです。

ちなみに琉球経済の壊滅具合は、明治6年(1973年)琉球藩より明治政府に提出された嘆願書、『琉球藩ヨリ貢米上納方之儀ニ付願』ではっきり確認できますが、その惨状には絶句という反応しかありません。この経済危機における琉球王府の鬼畜所業は機会があれば詳述しますが、ブログ主が不可解なのはなぜこの案件を琉球・沖縄の歴史で特筆特大で扱わないのか?そのあたりの”大人の事情”はよくわかりませんが、もしかして現在の歴史家は経済に対するセンスにかけているのか、そう思わざるを得ないと苦言を呈して今回の記事を終えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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