短銃で射たれ重傷 – 壷屋、暴力団のヤミ打ちか

前回ひさびさに沖縄ヤクザ関連の記事を掲載しました(『縄張り”暁に死す”』)。予想通りアクセス数が凄かったので、今回も調子に乗って昭和37年(1962年)11月13日に発生した又吉世喜銃撃事件について言及します。この事件は本土から”ヒットマン”を派遣して銃撃という沖縄ヤクザ史上初の事件であることと、この後抗争事件で銃撃が多発する歴史的?な出来事になりました。今回は当時の新聞と警察関係者、および昭和38年3月号の『月間沖縄』からの資料を掲載します。是非ご参照ください。


・今回4つの資料を引用しましたが、報道に若干の矛盾がありましたの表でまとめました。

まずは昭和37年(1962年)11月14日(水)、琉球新報(夕刊)からの抜粋です。余談ですがアメリカ世の時代の暴力団抗争を含む社会事件は琉球新報のほうが詳しく報じた傾向があります。

短銃で射たれ重傷 – 壷屋  暴力団のヤミ打ちか

13日午後11時50分ごろ、那覇市壷屋111、新垣某さん方面の路上で、短銃乱射事件が発生、通行中の同壷屋141、遊技場経営主、又吉世喜さん(30)が、左肩から腹部にかけて1発をあびたほか、右耳、左手関節などに●●●を受け重体。那覇署は、殺人未遂事件として同夜、全捜査員を非常招集、現場に飛んだが、犯人はすでに逃走したあとで、同署ではすぐ全島各署に非常手配した。

又吉さんは、事件発生後、約20分後の14日午前零時10分ごろ、救急車で那覇病院に運ばれたが腹部を射ぬかれて苦しんでいる。

又吉さんの話によると、犯人は3人組だったようで、又吉さんが帰宅するのを待ち伏せ、又吉さんが自宅前の新垣某さん宅前にさしかかったところを、路地の隙間からねらい打ち、3発あびせて逃走したという。犯人の1人には見覚えがあり「たしかコザ派暴力団のミンタマー(目が大きい)ヨシミこと新城良美(善史)だった」といっているところから、那覇派に対するコザ派のヤミ打ちとみられている。

一方、この緊急手配でコザ署では、コザ系暴力団の目ぼしい者を捜索したが、同夜は、那覇に出たものはなく、ぜんぶ自宅にいたというアリバイがあり、このため、捜査は難航している。

那覇署では署本刑事課の応援を得て、犯人の足どり追及に躍起になっている。

なお那覇署は又吉さんの体内からとりだした短銃痕を署本部鑑識にまわし、鑑定させるが45口径の拳銃らしい。

又吉さんは60年(正確には61年9月)にもコザ派暴力団から呼び出しをうけて、西原孫の飛行場●でコン棒などで袋だたきにされたことがあり、こんどの襲撃は2度目。


次は比嘉清哲著『沖縄警察50年の流れ』197~199㌻より該当部分を抜粋します。『旭龍 – 沖縄ヤクザ統一への軌跡 富永清・伝』にもこの事件についての記述がありますが、警察関係者の資料と『旭龍』に掲載された内容は一部矛盾があります(今回は『沖縄警察50年の流れ』の記述のみ掲載します)。

(四)石井組員も加担

警本が一斉手入れした1962年(昭和37年)1月以来、那覇、コザ派ともに一時動きが止まっていた。又吉首領を襲った首謀者の1人、コザ派幹部・新城善史は捜査の手を逃れ、同年8月に本土系暴力団、石井組系の鹿児島県の暴力団組長宅に身を寄せていた。

新城はこの時、石井組組員、山中一夫(30)鹿児島県出身、絹川某(30)等と接触した。

”又吉をやる”ために新城は山中、絹川を連れ密航して沖縄に帰って来た。

新城・山中・絹川等は3か月後の11月4日午後2時頃、又吉を狙撃する実行グループを編成するため、泡瀬海岸に集まった。

2日後の6日午後8時頃、新城・山中・絹川・それに仲本善忠等が加わり、具志川市の昆布海岸で2度目の謀議を行い、新城と仲本はそばに居た仲間の1人に「これからやる、那覇派は山中と絹川の2人がやる」と初めて狙撃計画を明らかにした。

山中と絹川は海に向けて、それぞれ1発を試し撃ちした。

さらに、1日後の7日午後7時ごろ、再度山中・絹川らが泡瀬海岸に集まり、実行日を1962年(昭和37年)11月13日午後8時と決め、当日コザプリンスホテルに集合。コザ派からは2人が加わった。

(五)狙撃を実行

山中・絹川は要用に出ている又吉の帰りを待って、那覇市壷屋の又吉宅前で張り込んでいた。

約1時間後の1962年(昭和37年)11月13日午後11時45分頃又吉宅前で、又吉の乗った車を見つけると、山中がコルト45口径で1発撃ち、車から降りて逃げるところを絹川が2発撃った。

又吉は、隣家に飛び込み、「ピストルで撃たれた、警察に連絡してくれ」と頼んだ。

那覇病院に運ばれた又吉は、右肩から腹部に1発が貫通、重傷を負った。

又吉は「コザの連中にやられた」と言った。

山中・絹川は逮捕されることをおそれて今帰仁村呉我山のコザ派組員宅に身を隠した。危険を感じたコザ派組員等は狙撃から12日経た11月25日、山中、絹川、仲本の3名を運天港から密航で鹿児島に逃がした。

11月28日鹿児島に渡っていた仲本から新城に対し送金するよう連絡が入る。

山中等の”報酬”として新城は仲本宛に1千ドルを送金した。

12月初旬になって、山中から喜舎場宅に「約束が違うじゃないか。善史はいるか」と電話が入る。当時仲本は報酬のことで山中に監禁されていた。新城はさらに1千ドルを山中あてに送金した。結局又吉狙撃の報酬として2千ドル送った。


昭和38年(1963年)3月号『月間沖縄』「殺し屋に殺された暴力団」からの抜粋。正確には殺人ではなく殺人未遂です。『月間沖縄』の記事は後日改めて全文を掲載します。

暴力団余聞

コザ派が雇った本土の”殺し屋”の一味は大分県石井組幹部山中一夫など4名だと見られているが、又吉世喜殺人〔未遂〕事件に関係したのは山中一夫と絹川某である。同事件は昨年11月13日午前11時ごろ起きたもの(正確には午後11時)。那覇派のボス又吉世喜が自動車で那覇市壷屋の自宅に帰ってくるところを待ち伏せ、自動車の窓から45口径の短銃で2発打った。弾は又吉の肩に当った。普通なら即死の当りどころだが弾丸は急所をはずれた。奇跡だといわれている。

沖縄に来た殺し屋4名は報酬としてそれぞれ手つけ5千ドルをもらっており殺人に成功すれば1万ドルをもらうことになっていたという。これは刑務所から出たあとの生活保証金としてはまず普通だそうだ。

山中は短銃を手に入れるため昨年8月の末、大島郡与論の茶花港からエンジン付きクリ舟で沖縄に密航した。この時はすぐ帰ったが、10月はじめ、同じルートで再び沖縄に渡たり、コザ派の暴徒と知り合った。コザ派の暴力団は当時那覇派暴力団と勢力争い中で、山中はコザ派から又吉を殺してくれとたのまれた。

山中は11月11日夜、石川の海岸で、コザ派暴力団の幹部、親川正彦、糸数宝昌、与古田徳重などと殺人計画を立てたという。


最後に昭和38年(1963年)2月20日の琉球新報の記事です。『月間沖縄』では山中一夫で、琉球新報の記事では山中一男と記載されています。

山中、又吉射撃を自供 – 石川海岸で殺人協議

【鹿児島支局】宮崎署は18日沖縄コザ派暴力団にやとわれ、殺人未遂を働いた別府市の暴力団、石井組の幹部山中一男(鹿児島県指宿郡生まれ – 31~32歳)を殺人未遂と短銃不当所持、出入管理令違反の疑いで宮崎地方検察庁に送検した。山中は石井組幹部2人と1月11日宮崎市の旅館に宿泊中、短銃不当所持で逮捕され、その後宮崎署で取り調べを受けていたが、同18日九州管区警察本部と琉球警察本部から「山中らは那覇市での暴力団殺人未遂に関係があるから調査してほしい」との依頼があり、引き続き宮崎署で調べていたもの。

くり舟で密入国 – コザ派暴力団に頼まれる

山中は短銃を手に入れるため昨年8月の末、大島郡与論の茶花港からエンジン付きくり舟で沖縄へ密航した。この時はすぐ帰ったが、10月はじめ、同じルートで再び沖縄に渡たり、コザ派の暴力団と知り合った。コザ派暴力団は当時那覇派暴力団と勢力争い中で、山中はコザ派から「那覇派暴力団の首領を殺してくれ」と頼まれたと自供している。

山中は11月11日夜、石川の海岸で、コザ派暴力団の幹部、親川正彦、糸数宝昌、与古田徳重、仲間〇〇と殺人を謀議、同13日午後11時40分ごろ那覇派のボス又吉世喜が自動車で那覇市壷屋の自宅に帰ってくるところを待ち伏せ、自動車の窓から45口径の短銃で2発打った。弾は2発とも又吉の肩に当たり、又吉は生命だけはとりとめていたもの。

 

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