院外団と暴力

昭和37年(1962年)12月8日、琉球政府主席を指名するために開催された立法院の臨時議会において、琉球・沖縄の歴史に残る大騒動が起きました。大まかに説明すると、主席公選を主張する野党側(社会大衆党、社会党、人民党)が臨時議会における主席指名を阻止するために院外団(革新共闘会議、沖教祖など)を動員、そして彼等の一部(300人ぐらい)が立法院に乱入して与党議員を軟禁し最終的に琉球警察によって排除された事件です。

実は琉球政府時代における主席任命は方法がコロコロかわったため、少し分かりずらい部分があります。下記引用をご参照ください。

戦後沖縄の行政府は、1945年の沖縄諮詢会、1946年の沖縄民政府、1950年の沖縄群島政府、1952年の琉球政府と名称が変わっていくが、その上には常に米国(軍政府・民政府)が存在しており、米国の許す範囲内の自治しか認められてなかった。そのため、自治権を拡大するための運動が行われていた。その大きな目標が行政主席の公選だった。米国軍政府は、各群島政府の知事を公選にしたが、翌年には琉球臨時中央政府を発足させ、その長(行政主席)を民政副長官が任命し、中央政府樹立の準備に当らせた。1952年4月1日には、正式に琉球政府を発足させたが、行政主席は、当然公選になるものと確信していた住民の期待を裏切り、民政副長官が直接任命している。

米国民政府は、主席公選を求める住民の声が高い中、次々と任命方式を変えていくことになる。1957年には、高等弁務官が立法院の代表者に諮って任命する方式をとり、1960年には、立法院で過半数の議席を得た責任ある政党から任命する方式を取った。更に、1962年には大統領行政命令により、立法院が指名し、高等弁務官が任命することとなった。同方式による主席指名のための臨時議会が、1962年12月8日に開会されたが、あくまで主席公選を叫ぶ革新団体は、主席指名阻止闘争を展開することになる。

引用:沖縄県警察史:第3巻(昭和編)688~690 ㌻ より抜粋。

ちなみに与党(沖縄自民党)は最終目的は主席公選も、自治権が一歩拡大したとの判断で大統領行政命令による主席任命方法に賛成します。まぁ、指名予定は自民党党首の大田政作さんですし、先の立法院選挙で大勝してますから、自党から行政主席が出ることは願ったりかなったりの情況であったことは間違いありません。

対する野党は「主席公選」を主張して譲らず、臨時議会開催前の与野党交渉も決裂します。そして当日8日の様子は下記引用をご参照ください。

(中略)臨時議会当日は、午前10時に議会運営委員会、午後2時から本会議を開催する予定であったが、革新団体は午前9時過ぎには、約300人を立法院内に乱入させてピケを張った。ピケ隊が保守系の自民党議員をカン詰めにする等混乱し、予定より大幅に遅れ、議員運営委員会(以下議運委)は午後1時50分から開会され、主席指名は単記記名投票とすること等を決めた。

同日午後3時20分頃、本会議開催のため、長嶺(秋夫)立法院議長が議場へ向かったが、ピケ隊に阻止された。そのため議長は、院内のピケ隊に対し退去命令を出すとともに、同日午後3時40分に議会史上初めての警察官出動要請を行った。

警察局においては、アイゼンハワー大統領警護以来の約800人の警備体制で、院外における警戒に当たっていた。立法院での初の警備ということもあり、また、革新団体に対し無用な刺激を与えないため、全員警棒を外し、丸腰で警備に当った。

議長からの出動要請を受けた警備本部は、警察官を立法院内に迅速に投入し、那覇地区警察署次長がハンドマイクで、院内に乱入していた革新団体に対し、退去命令を発した。院内でピケを張っていた革新団体約300人は、退去命令が出るや、何ら警察官に抵抗することなく院外に退去した。院内秩序が回復されたことから、同日午後4時10分に、議員29人中28人が議場に入り、午後4時15分には議会が開会された。本会議においても、主席指名について激論が展開されたが、指名投票直前になって革新系議員10人は退場した。同日午後5時40分に、残った保守系議員18人によって投票が行われ、大田政作が主席に指名された。主席指名阻止闘争は、その後も激しさを増していき、1968年の主席公選まで続くこととなる。

引用:沖縄県警察史:第3巻(昭和編)688~690 ㌻ より抜粋。

上記引用を補足すると、「警察局においては、アイゼンハワー大統領警護以来の約800人の警備体制で、院外における警戒に当たっていた。」とありますが、実は琉球警察は事前に不穏な動きを察知して、立法院からの事前要請がないにも関わらず午前8時には警備体制に付きます。その予想は的中し、野党議員が動員した院外団によって臨時議会の開催が危ぶまれる事態になったため、長嶺議長が正式に警察官出動要請を行い、院内に乱入していた野党院外団を排除することになったのです。

じつはここまでが前ふりで、与党自民党も野党の不穏な動きを察知していたため、その対応策として院外団を動員し、立法院の議会傍聴席を占拠します。つまり傍聴席は自民党の院外団および関係者だらけで野党を締めだしたわけですが、問題はこのときに自民党はどういう連中を動員して野党の院外団に対抗したのか、これについては次回のお楽しみということでご了承ください。(つづく)