「だから何?」って感じ

平成30年(2018年)4月23日の沖縄タイムス(社会 – 26)に以下の記事が掲載されていました。全文を書き写しましたので読者の皆さん是非ご参照ください。

百田氏 普天間で持論 – 宜野湾市 中国の脅威も強調

作家の百田尚樹氏が22日、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで講演した。地元の米軍普天間飛行場周辺の住民について「基地周辺に行けば商売のチャンスがあると集まった」「基地はないほうがいいが、基地があるから振興した面も現実としてある」と述べた。

百田氏は2015年の自民党本部・昨年の名護市での講演でも同様の持論を述べている。戦前、9千以上が暮らしていた宜野湾中心部の都市を接収した経緯は「そうかもしれない」と言及した。

中国の脅威を強調する中で「中国人は歴史的に残虐な民族」と発言。「沖縄の活動家ははっきり中国と手を結んでいる・日本から独立させようとしている」と語った。情勢調査で「オール沖縄」候補に投票する人に60代以上が多いことを挙げ、「団塊の世代が死ねば日本はかなり良くなる」とも話した。

また、本紙記者を繰り返し名指しして「気持ち悪い」「うそつき新聞などと批判。昨年の名護市での講演後、本紙記者が発言の真意を尋ねる様子を撮影した動画を「アトラクション」として開演前の会場で上映した。一方で、22日は本紙の取材に応じなかった。

講演は仲井真弘多知事らが呼び掛けた。1550人(主催者発表)が来場した。

注目は冒頭の部分「基地周辺に行けば商売のチャンスがあると集まった」「基地はないほうがいいが、基地があるから振興した面も現実としてある」で、この発言はウソではありません。我が宜野湾はかつて宜野湾村で、昭和37年(1962年)に市制が施行された最大の理由は「人口の急増」です。この点は当ブログでも指摘しましたが、今回その部分を再掲載します。

普天間第二小学校の分離開校は我が宜野湾市では初のケースで、その理由は人口の急増です。そのため昭和37年(1962年)の市制施行からさかのぼって学校の歴史を鑑みるのがよいと考えます。

・昭和37年(1962年)7月1日、宜野湾村が市に昇格。理由は人口の増加で、昭和30年(1955年)に18,469人の人口が5年後の昭和35年(1960年)に3万に激増し、市制昇格の条件を満たしたから。

・昭和39年(1964年)1月1日、従来の23区に変わって20の新行政区が誕生(23自治区20行政区)。この時に人口増を理由として、普天間と野嵩が分割され、普天間1区、3区、野嵩1区、2区、3区が誕生。(俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その1

沖縄戦後の宜野湾は、実に多くの土地を米軍に土地を接収されます(村面積の約44パーセント)。当時野嵩に収容されていた地元村民は昭和21年(1946年)ごろから元の部落への帰還が開始されますが、当然米軍が接収された土地に戻ることが出来ず、基地の周りを囲むようにして住民が集落を作るようになります。これが現在の宜野湾市の原型です。

サンフランシスコ講和条約発効後(昭和27年4月28日)を端とする土地問題により、宜野湾村も大騒動になるのですが、昭和33年(1958年)に土地問題がいったん解決すると、その前後年あたりから人口が急増します。とくに増えたのが普天間地区と野嵩地区。理由はただひとつ、米軍基地関連の職業目当てです。

米軍関連の職業は、軍雇用員に限らず、たとえば米人あるいは米軍相手の小売業やサービス業も含まれます。昭和37年に市制が施行されたあとも宜野湾市の人口は増え続け、復帰直前には46,692人(昭和46年)まで増加します。昭和30年時点で1万8千人ですので、当時の宜野湾市がどれだけ軍関係の仕事にあふれていたのか、この事実からも推測できます。

昭和47年(1972年)宜野湾市役所が発行した「市勢要覧」を参照すると、

商工業

本市の商工業は、事業者総数の85%を卸小売業、サービス業で占められているが、規模はきわめて零細なもので、従来の基地経済からの脱却による経済基盤の確立が迫られています。(中略)

とあります(ちなみに現在は大雑把にいうとサービス業>建設業>不動産業の順で、第三次産業が8割をしめる産業構造です。)。アメリカ世の時代は人口の約30%が基地関連の仕事に従事していたとの話もあり、復帰後の宜野湾市の最重要課題のひとつが「基地依存経済からの脱却」であった点を踏まえると、百田氏の指摘した「基地があるから振興した面も現実としてある」との指摘は単に歴史的事実を述べただけで、別に過剰反応する必要はまったくありません。

ちなみに1960年代の宜野湾市の重要課題は、①人口急増にともなう学校新設問題、②普天間地区に拠点をおいた暴力団の追放です。実際にこの時期に普天間中学校、中部商業高校、嘉数中学校が相ついで新設されています。暴力団が普天間地区に巣食った理由は、宜野湾の経済が急成長してゆすりたかりの相手に事欠かなかったからです。(当時の暴力団普天間派の首領の自宅兼事務所は普天間高校の近くにあった。)我が宜野湾市において「米軍基地出て行け」の声が大きくなったのは、普天間第二小学校ができた後のお話です。

「宜野湾市史」をちょっと調べれば上記の事実は簡単にチェックできます。だから「基地があるから振興した面も現実としてある」との発言は間違いではないのです。この発言に過剰反応する人は単なる勉強不足かあるいは何か不都合があるのかのどちらかでしょう。

最後にこの記事を読んだブログ主母がひとこと、「沖縄タイムスは百田さんになんか恨みでもあるのかね~」。県民の新聞を自称するなら、もうすこし品のいい記事を提供してほしいと切望しつつ、今回の記事を終えます。


宜野湾市役所発行(1972年9月25日) – 1972年版市勢要覧より、当時の宜野湾市の様子をアップします。

・復帰前後の普天間三叉路。左側のビルディングは現在もあり、その後ろ側に普天間高校があります。

・県道30号線からみた写真で右側は新城・喜友名地区。この写真からも人口が密集していることがわかります。

・当時の観光案内地図。

・現存する嘉数中学校内(正門左側)にある記念碑

 

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