【急募】琉球藩の二枚舌交渉を擁護する方法

今回は明治8年(1975年)に実際に起こった琉球藩の二枚舌交渉について言及します。事の発端は同年7月29日(新暦)に来琉した松田道之が通知した御達書の中にあった「清国との関係断絶」「日本の年号使用」そして「藩政改革」に対して琉球藩が難色を示したことです。

このときのすったもんだは喜舎場朝賢著『琉球見聞録』に記載ありますが、最終的には国王人選の藩吏に委任を与えて上京し、明治政府に嘆願することでいったん話がまとまります。その時に国王尚泰が松田および太政大臣三条実美に提出した書面は下記ご参照ください。

當藩支那との續五百年來の緣由有之信義之掛る所にて斷ち絶候儀難致是迄通被仰付度内務大丞松田道之へ段々願立候得共御採用無御座其儘御請仕儀藩中人心之安せざる所に候間藩吏内人選之上拙者之委任を與へて上京せしめ今一應政府へ申上其上御採用無御座候はば東京表に於て直に御請可申上趣を以て遂に松田大丞の評容を得今般池城親方差出與那原親方幸地親方喜屋武親雲上内間親雲上随行申付候條宜御賴申上候也

明治八年九月十日(舊八月十日) 琉球藩王 尚泰

太政大臣 三條實美殿

引用:喜舎場朝賢著『琉球見聞録』111~112㌻

原文は分りにくいところありますので、ブログ主にて旧漢字等を訂正した文章を掲載します。

当藩(琉球藩)、支那(明・清)との続五百年来の縁由(えんゆ=ゆかり)これあり、信義の掛る所にて断ち絶(=断絶)そうろう儀致し難く、これまでどおり仰せつけられたく内務大丞松田道之へ段々願立(がんたて)そうらえども、御採用ござなくそのまま御請け(の)儀、藩内中人心の安せざる所にそうろう間、藩吏内人選の上拙者(=尚泰王)の委任を与へて上京せしめ、今一応政府へ(嘆願)申し上げ、その上御採用ござなく候はば、東京表において直に御請け申し上げるべき趣(しゅ=筋道)を以て遂に松田大丞の評容(=許可)を得、今般(こんぱん)池城親方(を)差出し、與那原親方、幸地親方、喜屋武親雲上、内間親雲上(に)随行申し付けそうろう条、宜しくお頼み申し上げそうろうなり。

明治八年九月十日(舊八月十日) 琉球藩王 尚泰

まぁ説明不要とは思いますが、国王委任の使者を派遣して明治政府に嘆願し、その上で採用されない場合は東京にて(つまり委任の使者が)直に御達書をお請けするとの内容です。「御達書をお請けする」とは即ち上記記載の「清国との関係断絶」その他もろもろの条件を受けることですが、結論を先に言うとこの時の嘆願団はこの約束を反故にします。

来琉した(交渉人である)松田道之をさしおいて明治政府へ直に嘆願すること自体、松田のメンツを著しく傷つける行為ですが、国王人選の藩吏が約束を反故にした時点で松田のメンツは丸つぶれになります。しかも

弱い立場の分際で強い立場の人たちに二枚舌を使った

ことは決して見過ごすわけにはいきません。現在のブログ主のレベルでは国王尚泰および上京嘆願団を擁護する論法が思いつかないので、だれか擁護していただく方および方法を絶賛募集します。

琉球見聞録のこの件を読むたびに「嘘であってほしい」と嘆息するブログ主であります(つづく)。

 

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