ものくゆすど、わ御主

先日ブログ主は史料チェックのため沖縄県立図書館の郷土資料館でまったりと涼んでいました。その際に山里永吉先生*の著作を読んでいたところ、突っ込まざるを得ない記述があるのを発見しました。

せっかくなのでその部分をコピーして全文を書き写しました。読者のみなさん是非ご参照ください。

*山里永吉(ヤマザト・エイキチ:1902~1989)戦前・戦後を代表する文化人の一人。画家、作家、歴史家、陶芸家。琉球史劇「首里城明け渡し」の作者で有名。

ものくゆすど、わ御主

『ものくゆすど、わお主』という言葉がある。第一尚氏時代好戦王尚徳が久高島参詣で首里城を留守にしたとき、安里大親が百官を集めて、『ものくゆすどわお主、内間御鎖どわお主』と称えると、百官がそれに和称して、第二尚氏革命が成立したということになつている。しかし、「中山世鑑」には、この事件を簡単に、

尚徳王、在位九年、行年未ダ三十ニモ満タザルニ成化五年己丑四月二十二日、寿二十九ニシテ薨ジ給イケレバ、時ノ摂政ドモ幼稚ノ世子ヲ立テントシケルヲ、国人世子ヲ廃シテ、内間里主御鎖側ヲゾ立奉ル。是ヲ中山王尚円ト為ス

とだけしか書いてない。そして尚円の王位継承を理由づけて、

父母ハ素ヨリ嶋ノ百姓タリ。其ノ先ハ今ニ知ルベカラズト云ヘドモ疑フラクハ先王ノ後胤ニシテ故有つて彼地ニ渡リ、世々島ノ百姓トハ成リヌラン。然ラザレバ即チ如何ゾ俄ニ此ノ大福アランヤ。

と言つている。

そこで「ものくゆすどわお主」だが、”ものくゆすど” というのは、物を呉れるという意味ではない。よく、それを奴隷根性、乞食根性だという人がいるが、”ものくゆすど” というのは、自分で食べてゆけるという意味で、諺の大意は、「楽に生活していくようにして下さるのが、われわれの支配者だ」という意味である。

尚徳王が、戦争やその放埓の為に、人民の生活が苦しくなつたので、これではかなわないから、まず生活できるようにして下さるのを、われわれの国王に推挙しようという意味であつて、別に内間御鎖金丸(尚円)が物をくれるから王様にしようというのではない。

言つてみれば、立派な民主主義で、最大多数の最大幸福を唱えて、支配者を推挙しているのである。長いものには巻かれろではなく、実際に自分達の生活の為に、支配者を推挙できた当時の琉球人は、むしろ幸福である上に、勇敢であつたと言うべきで、けして奴隷根性でも乞食根性でもないのである。

引用元:山里永吉著『壷中天地』(光有社)76~77㌻

上記引用を理解するためにこの著作が発刊された昭和38(1963)年当時の情況を説明すると、琉球政府の主席は公選ではなく米国民政府の高等弁務官の承認が必要でした。しかも任命方式もいろいろ変わって、前年の昭和37(1962)年12月には立法院が野党勢力に包囲される大事件も発生しています。

琉球住民が自分たちの手で行政主席を選べない中、われわれの御先祖様は生活を保障してくれる立派な指導者を選んだことがある、それを “立派な民主主義” だと称えたい気持ちはすごく分ります。”ものくゆすど” の解釈も永吉先生の主張に異論はありません。ただしその立派な民主主義の結果

尚徳王の実子が殺害され、血族が根絶やしにされた

ことはどうやって解釈したらいいのでしょうか。最大多数の最大幸福を唱えて、支配者を推挙するのはよろしいのですが、いかなる罪で先王の実子および血族は鏖殺の憂き目にあったのか。実はこの案件は

琉球古代史の最難関事項

であり、現在のブログ主のレベルでははっきりとした答えを提供できません。地下の永吉先生に変わってお答えできるお方がいればありがたいなと他力本願な思いにとらわれたブログ主であります。(終わり)

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