オキナワンロックと “後継者”

当運営ブログは、今年で7年目を迎えましたが、実は近現代の大衆文化(風俗等含む)は積極的に取り上げて来たブログ主が、長年オキナワン・ロックには手を付ける気になりませんでした。

その理由の一つが「公開された史料の乏しさ」であり、事実彼らが全盛期の昭和40年から52年までの一般紙には、ブログ主が確認できる限り、芸能欄でバンドマン(当時はそう呼んでいた)の活動記事を見つけることができませんでした。ただし、80年代も中盤にはいってから、ようやく信頼できる史料を見つけたので、満を持して記事として紹介している次第です。

※活動全盛期に、一般紙が取り上げなかった理由については、今回は割愛します。

ただし、ブログ主が史料をチェックして驚きを禁じ得なかったのが、80年代に紹介されたオキナワン・ロックの面々と、現在のメンツがほとんど変わっていない件です。具体的には、初期の大スターである「紫」「コンディショングリーン」を超える “ニュースター” がついに出てこなかったわけであり、それはつまり後継者を育成できなかったわけです。

昭和59年(1984)6月30日から沖縄タイムスで掲載された「喜屋武幸雄の沖縄ロックアラカルト」によると、70年代から80年代の若手ロックバンドの修行方法は、アマチュアバンドを結成、そのあとコザのどこかのライブハウスに入って前座での演奏やベースまわりなどの下積み時代を過ごして実力をつけるというやり方です。

ただし、ベトナム戦争終結や、昭和53年(1978)の本格的な円高が、若手バンドの成長を妨げる要因となります。そして80年代にはいってバンド活動だけでは生活できない状態が続くなか、昭和60年(1985)のプラザ合意による円高が決定打となり、知名度あるアーティストならともかく、知名度に乏しい若手バンドが県内で活動するには極めて不利な環境が出来上がってしまったのです。

それと育成方法にも問題があったのです。オキナワン・ロックのアーティストは日本市場から見ると「外タレ」そのものであり、“日本の中の外国からやってきたバカテク集団” が最大のセールスポイントであって、事実復帰後は、日本のロックバンドとの実力差は著しいものがありました。

ところが復帰して10年、20年もすると “技術差” も縮まり、コザで下積みしなくても、本土のライブハウスで実力をつける、あるいはアクターズ・スクールなどの芸能プロダクションに所属して技術を磨き、日本市場に活躍の場を見出すアーチストが増えてきました。J-POPシーンで活躍するには “外タレ” の設定なんて不要ですし、その結果、平成に入ると70年代の「紫」や「コンディショングリーン」の実績を超える県出身のアーティストが続々誕生します。読者のみなさんもご存じの通り、安室奈美恵が典型的な例です。

※オキナワンロック側からも喜屋武マリーやアイランドなどの “先駆者” たちが日本市場を目指す動きがありましたが、うまくいったとは言い難い結果となりました。ただし興味深いのが、アルバムを複数枚リリースした喜屋武マリーはこれといった名曲を残せなかったのに対し、アイランドは「Stay with me」の名曲を後世に残します。

ここまで、ざっとオキナワンロックの “後継者” が出てこなかった理由についてブログ主なりに言及しました。ピースフルラブロックフェスティバルからニュースターが誕生しなかった理由もこれで説明できるかと思われますが、おそらく一番の原因は伝聞情報と公開情報を分析した結果、

シージャたちが怖かったから

にほかなりません。その点も踏まえて、次回からはオキナワンロックの隠し通せない “本性” について(今度こそ)言及します。

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