今帰仁延子さんの考察 – その2

(続き)今回は、ブログ主が確認できた史料を基に、作成した今帰仁延子さんの年表をアップします。すると、幼少期の体験が今帰仁さんに決定的な影響を与えていたことが理解できますので、そのあたりをできる限り、そして調子に乗って分かりやすく説明していきます。

※参考にした資料は、外間米子監修『時代を彩った女たち – 近代沖縄女性史』、護得久和子著『自叙伝 – ちからのかぎりに』、そしてブログ主祖母が所持していた『ひめゆり – 女師・一高女沿革誌 -(昭和62年)』、『ひめゆり同窓会会員名簿(昭和56年6月)』『ひめゆり同窓会会員名簿(2000年4月)、ほか琉球教育や沖縄タイムスの記事です。

※護得久和子さんは今帰仁延子さんの長女です。『時代を彩った女たち – 沖縄近代女性史』の記述は、護得久さん自叙伝に依るところが大きいので、念のために自叙伝の今帰仁さんに関する記述にも目を通しました。

※参考までに、ブログ主祖母は沖縄県立第一高等女学校の昭和11年卒(33期生)です。

まずは簡易年表をご参照ください。

簡易年表の注意点ですが、生年月日は『時代を彩った女たち – 沖縄近代女性史』の記述と、昭和43年1月1日付沖縄タイムス45面の随想に紹介されていた年月日が一致したので、明治20(1887)年1月5日で確定です。そして、彼女は昭和43年の元日号に随想を寄稿してますので、死亡年月日は昭和43年(1943)7月6日で間違いありません。外間米子さんの本では昭和42(1967)年となってましたが、これは護得久和子さんの自叙伝の記述をそのまま掲載したからです。(『ちからのかぎりに』関連年表205㌻)

あと、首里小学校へ入学した事実も確認できますが、入学年月が不明なため、簡易年表には記載していません。

この年表でピンときた読者もいらっしゃるかと思われますが、彼女の人生において、私立沖縄高等女学校への入学から4年間の学生生活が決定的な影響を及ぼしたこと間違いありません。具体的には、

1.琉装から和装への切り替え

2.校舎の都合上、女子講習科の生徒と一緒に授業を受けたこと。

3.宮川スミ先生との出会い。

になります。この点は極めて重要なため、次回詳しく説明します。

『ひめゆり – 女師・一高女沿革誌 -(昭和62年)』の中に、首里城正殿前での記念撮影がありましたので紹介します。ちなみに当時の女学生たちの平均身長は1㍍45㌢前後、そして和装しているのが印象的です。

・再アップですが、昭和11年卒(セーラー服時代)のブログ主祖母の写真です。参考までにブログ主祖母の身長は1㍍48㌢なので、昭和に入るまで、女学生の体格には大きな変化がなかったことが伺えます。

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