仕方ない書評

12月25日の日刊ゲンダイDIGITALに掲載された、朝日新聞論説委員の高橋順子氏のインタビューがネット上で絶賛大炎上しています。その原因がインタビュー冒頭の部分、「新聞記者は、ウラを取って書けと言われるが、時に〈エビデンス?ねーよそんなもん〉と開き直る。政治部次長だった時に書いた朝日新聞社のコラム「政治断簡」をまとめた著書『仕方ない帝国』(河出書房新社)が評判だ。」の部分です。ちなみにエビデンス(evidence)の意味は大雑把に言って、「確固たる証拠、裏づけ」になります。果たして裏づけ(エビデンス)なしで本当に記事を書いていたのか、興味を持ったブログ主は早速ですが『仕方のない帝国』を入手して呼んで見ました。

〈エビデンス?ねーよそんなもん〉の部分は19㌻の中にありまして、その前後の部分を抜粋すると、

(中略)私は、読者はあくまで「読者」で、「お客様」とは思っていない。ひとりでも多くの人に読んでほしいと読んでほしいと書いているが、気に入られようとは思わない。嫌われたり読み捨てられたりしながら、読者の思考をちょっとだけでも揺さぶりたい。はい。きれいごとですよ、きれいごと。だけど、そこを曲げたら私のなかで何かが終わる。

何かは何か。何かとしか言いようがない、何か。エビデンス?ねーよそんなもん

目には見えないものを大事に思うことで、この世界のある部分は成り立っているはずなのだけど、それを上手に説明したり理解したりしてもらうのは、昨今なかなか難しい。消費社会、経済の論理が全面化しているから。損か得か。結果だけ。数字がすべて。

ブログ主の責任でまとめると、高橋さんが心の中で大事にしている部分があって(きれいごと)、それをうまく説明できない、その大事な「何か」をうまく伝えられないもどかしさを〈エビデンス?ねーよそんなもん〉を表現したと読めます。だから日刊ゲンダイDIGITALのインタビュー冒頭部分は高橋さんの気持ちを全く忖度していない、極めて誤解を招き易い文章に他なりません。この件では高橋さんは怒ってもいい。

ちなみに取り寄せたこの書籍を読んだ感想は、「とにかく疲れた」の一言に尽きます。なぜ疲れたのか一晩たって冷静に考えたところ、「ここまで自分の言葉に酔っている文章にはなかなかお目にかかったことない」からです。ブログ主の記憶では今年5月に当ブログでも取り上げた、『沖縄で島猫と遊ぶ日々・(ΦωΦ)フフフ版』を読んで以来の気持ち悪さです。

琉球新報において毎週日曜日に掲載される「日曜の風」の室井佑月さんのコラムとノリが似ていますが、室井さんは「ここまでなら大丈夫だろう」という独特のカンを働かせて、読者を怒らせないよう配慮している感がありますが、高橋さんの文章にはそれが一切感じられないところがすごい。52㌻には

きっと今日も縦横左右、誰かがどこかで分断線を引いている。カネ目の話をしていたりする。でもたぶん、奇跡のように美しく、心震わされる瞬間は、そんな線や数字を飛び越えたところでぱこんと生まれる。

自称「現実主義者」に「お花畑」と冷笑されても、花が咲く世界の方が美しい。美しいに決まっているだろ、と大声で言いたい。言い続けたい。線の向こう側に届くように。お金を数えている人がふと、顔を上げてくれるように。(『分断線/カネ目/その向こう』 44~52㌻からの抜粋)

との記載がありました。この本はまさにその通りで、

「どう?私のお花畑は美しいでしょう?」

と世間にアピールする目的で出版されたとブログ主は判断しています。つまり安倍政権を批判することが本人のお花畑を美しく彩っていると判断しているから政権を批判しているのです。弱者の見方を装っているように見えるのです。おそらく政権批判が自分の抱える美しさを保障できなくなった場合は、別のテーマで世間に己の美をアピールするでしょう。典型的なナルシストの思想です。だから読書後に謎の疲労感と気味の悪さが残ってしまいます。たしかにブログ主の思考をちょっとだけ揺さぶられました、ただし疲れる方向にです。

だがしかし、長年記者を務めてきたせいか、人を見る目はあるかなと感じる部分もありましたのでその部分を抜粋します。34~36㌻に記載された鳩山友紀夫氏に対する感想です。高橋さんは己の自意識過剰を乗り越えたらもしかしたら素晴らしい記者になるのでは?と思ったりしたので、全文を掲載します。読者の皆さま是非ご参照ください。

誰かの檻

愛と覚悟とネクタイ

君の瞳が何万ボルトだろうが、人は見た目が何パーセントだろうが知ったことではないけれど、こと政治家を理解するうえでは、ファッションはひとつの大きな手がかりになると、私は思っている。その人の自意識、自己認識が、どうしても漏れにじむものだからだ。

たとえば「宇宙人」の異名を取り、沖縄米軍基地問題をめぐる「最低でも県外」発言で圏外に飛んだ鳩山友紀夫元首相。彼が政権交代を果たして首相になる8年前、私は新聞にこんなことを書いた。

チューリップ似合うのも悪くない

ある日、民主党(当時)の鳩山由紀夫代表の胸元は「春」だった。淡いピンク地に青いチューリップ柄のネクタイ。普通のおじさんがしていたら、きっと私は、夜店で3本1000円かな、と思っただろう。それぐらい「紙一重」のデザインだったが、実に上品に着こなしていた。似合っていた。

ピンクとチューリップと鳩山由紀夫。こう並べて何だかしっくりくる感じが、今の鳩山氏の弱みだといえる。剛腕とか男気があるとかもてはやされる政治文化の中では「なよなよしてて頼りない」の一言で片付けられてしまうからだ。

本人も気にしているのだろう。「鳩山という男を、より信頼のおける存在として……」と記者会見で語るなど、時折「男」への強いこだわりをのぞかせる。

そろそろ開き直ったらいいのに、と思う。おれほどチューリップのネクタイが似合う政治家がほかにいるか、と。それができずに、強い男にこだわるところが、男性はもとより女性の支持が集まらない原因のひとつではないだろうか。

開き直ったうえで、何を考え、どうしたらいいのか、自らの言葉で率直に語ってほしい。だめな面も正直にさらけ出すことこそ、鳩山氏の言う、「愛と覚悟」だと思うが。(「朝日新聞」2001年3月7日付朝刊)

今も覚えている。記事ではやや露悪に走っているが、素人にも一目で高級だとわかるシルクの光沢、複雑なニュアンスをたたえた美しいピンク。やんごとなき家に生まれ育った者の品とゆとり、そして浮世離れ感を象徴していた。ただ、そういうネクタイがこの上なく似合ってしまう己が、「宿命」とどこか折り合いをつけきれず、個として自立したい、自分自身の足で歩きたいと背伸びしている……そんな印象も、同時に抱いたのだった。(終わり)

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