仮説『万国津梁の碑文』- その2

前回の記事で”万国津梁の碑文”についてブログ主なりに説明しました。今回はなぜ尚泰久王が仏教に”ハマったか”について考察します。

ちなみに尚泰久王は明暦景泰5年(1454年)、46歳の時に即位して、1460年に亡くなっています。その間に建立した寺院の一覧は下記参照ください。

尚泰久が鐘を鋳た年代によって寺社の名をあげてみると、

(1456年)報恩寺、普門寺、天龍寺、大聖寺、大安寺、廣厳寺、健善寺、長寿寺、天尊廟

(1457年)永福寺、龍翔寺、大祥寺、天妃宮

(1458年)永代寺

(1459年)東光寺、臨海寺。

引用:比嘉春潮著『沖縄の歴史』97頁より

在位が7年扱いで、その期間に16もの寺院を建てたことになります。もっとすごいのは鋳造した巨鐘で、上里隆史先生のブログ『目からウロコの琉球・沖縄史』によると、

実はこの時期、「万国津梁の鐘」にかぎらず、たくさんの鐘が琉球で製作されていました。1455~1459年の間に何と23口も集中的に作られています。その理由は、当時の尚泰久王が仏教を深く信じていたからだとされています。それは確かだと思いますが、実は鐘を作る大きなキッカケの事件があったと僕は考えています。

参照リンク:再論「万国津梁の鐘」の真実(1)

と記載されてます。さすがにここまでくると尚泰久王の仏教への傾倒には”狂気”すら感じます。ブログ主は「さすがにこんな短期間で23口もの巨鐘を鋳造するわけがない」と思っていましたが、「琉球國由来記」などを参照するとどうやら本当らしい(正確にはカウントできませんでしたが)。その理由について同ブログ記事内で上里先生なりに考察していますが、今回は違った視点から(尚泰久王の動機について)言及します。

琉球古代史ではあまり触れられることはありませんが、実は尚泰久王即位の直前に王家の一大事件が発生してます。前王尚金福(1398~1453)が亡くなった後に王家で内紛が起こったのです。『球陽』から該当記事を書き写しましたのでご参照ください。

球陽巻之二 附記(布里志魯爭王位兩傷倶絕)

宣德乙卯(闕)巴志王封五男泰久于越來王子景泰癸酉曾(闕)金福王薨世子志魯將卽位時王弟布里威勢甚盛乃言曰吾係(闕)巴志王之子宜承父兄業而立志魯怒汝乃王弟非世子也豈可妄奪兄王之業乎布里大怒發兵攻擊志魯亦擁兵拒戰兩軍混殺滿城火起府庫焚燒布里志魯兩傷倶絕朝廷所賜鍍金銀印亦致鎔懷國人議誰王弟尚泰久就大位

宣徳乙卯(西暦1435年)巴志王五男泰久を越来に封じて越来王子とす。景泰癸酉(西暦1453年)金福王薨ずるに、世子志魯将に即位せんとす。時に王弟布里、威勢甚だ盛んなり。乃ち言ふて曰く「吾は巴志王の子に係る。宜しく父兄の業を承えて立つべし」と。志魯怒って曰く「汝は乃ち王弟にして世子にあらざるなり。豈に妄りに兄王の業を奪ふ可きか」と。布里大いに怒り、兵を発して攻撃す。志魯(も)亦兵を擁して拒戦す。両軍混〔戦〕し満城火起って府庫焚燒す。布里志魯両(者)傷して倶に絶つ。朝廷(明朝のこと)賜る所の鍍金銀印(も)また鎔壊を致す。国人議して王弟泰久を推して大位に就しむ。

*読み下し文は桑江克英訳注『球陽』を参照。

大雑把にまとめると、

・1453年に前王の子(志魯)と前王の弟(布里)との間で王位継承をめぐる”いくさ”が起こった。

・そして両者とも死んでしまった。

・しかも首里城内の府庫(倉庫のことか)も焼けてしまい、明皇帝から下賜された王印が熔けてしまった。

になります。つまり『球陽』の記述を参照すると歴史的な一大不祥事が発生し、尚泰久はそんな状況の中王位についたわけです。

これまでの経緯を参照すると、王の心理を伺うのは容易です。あくまで”点と点をつなぎ合わせた”だけの仮説ではありますが、尚泰久王が仏教に傾倒した理由は明らかに志魯・布里の乱の戦後処理の一環なのです。つまり

仏教の力を利用して”王家の安泰”を祈願したのです。

よくよく考えると目の前で親族が殺し合い、そして両者が死んでしまったら誰だって何らかの”心の傷”は残りますし、仏にすがりたい気持ちは十分に理解できます。トラウマ(精神的外傷)のなせる業とでも言えましょうか。

ここでまたまた素朴な疑問が沸いてきます。尚泰久王は精魂こめて”王家の安泰”を祈願したのですが、

果たしてこの”ウートートー”の成果はあったのか?

次回はこの点についても考察します(続く)。

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