又吉世喜さんのマスコミデビューの記事を見つけたお話

今回は通称スターこと又吉世喜さんが始めて沖縄マスコミに登場した記事を紹介します。

彼の存在は昭和36(1961)年に月間沖縄11月号の特集記事『縄張り”暁に死す”』で世間に知られるようになりましたが、その記事より4年前の昭和32(1957)年1月に沖縄タイムスおよび琉球新報に彼の起こした(であろう)傷害事件が掲載されていました。先ずは沖縄タイムスの記事全文を書き写しましたので読者のみなさん是非ご参照ください。

待伏せて袋叩き毆られた仲間の仕返し?

十五日よる十時半ごろ、那覇市十区六組、鈴屋冷凍所入口で市内K遊技場傭人通称スター(二八)外四人の青年が市内十区七組、無職、吉田貞夫さん(二六)の帰りを待伏せて袋叩き、顔に傷を負わし通りかかりの三つ星タクシーでKパチンコ店に連れこんだ。調べによると被害者の吉田さんがK遊技場の従業員、島袋全昭さん(二〇)を連れだして殴った仕返しとみられる。

犯行後現場に引っ返して付近の人に血痕を洗い流させたり、被害者と仲直りして証拠の隠滅を図った点からみていずれも市内に巣食う暴徒の一味とみて追求中と松尾交番から本署に知らせてきた。

引用:昭和32(1957)年1月16日付沖縄タイムス夕刊3面

同日の琉球新報夕刊にも同じ記事が掲載されていましたが、こちらのほうが詳しいです。

五名掛りで袋叩きヤクザの喧嘩出入り傷害事件

十五日夜十時半ごろ那覇市十区六組鈴屋冷凍所入口で傷害事件が発生した。

那覇市十区七組五八号無職吉田貞夫(二六)が国際遊技場従業員島袋全昭(二〇)= 住所不明 = を連れ出してなぐつたことから端を発しウツプン晴らしに島袋の仲間、住所不明沖縄市牧志在国際遊技場用心棒通称スター二七、八歳位、同従業員玉城セイケン三十歳位に島袋外二名 = 住所氏名不詳 = の五名が、ラツキースターダンス教習所付近を通行中の吉田を襲つて袋叩き、難を逃れようと逃げる吉田をさらに追跡して同冷凍所前で顔面に傷害 = 傷の程度不明 = を与え、通りかかつた三ツ星タクシーに吉田を無理に乗せてむつみ橋方面に連れ去つたと付近住民の目撃者が那覇署に訴え出た。

なおタクシーで立ち去る際五名連れのうち一人が降りて来て冷凍所の店番をしていた少年に対し道に流れていた血を水で流す様命じて同少年が水を汲んで来て洗い流すのを見届けて立去つたといいケンカ出入りに相当場なれしたヤクザ同士のケンカとみられているが、同署の調べによると、タクシーに乗つた連中はそのまま吉田を同遊技場に連れて行き吉田と島袋の仲直りをさせて十一時五十分ごろ立去つたという、傷害事件として同署が調査中。

引用:昭和32(1957)年1月16日付琉球新報夕刊3面

通称スターこと又吉世喜さんは昭和50年1月16日に45歳で亡くなっていますので、そこから逆算すると昭和32年当時は27歳で記事内の年齢と一致します。彼が用心棒上がりであることは有名ですので上記記事の”スター”は又吉世喜さんとみて間違いありません。

この記事を読んで驚いたのは、彼とその仲間たちが手際よく”お仕事”をしていることです。昭和28(1953)年に琉球政府によって遊技場経営(パチンコ)が許可されますが、そこで問題を起こす客は非常に性質が悪く(しかもトラブルが多発していた)、その対策として遊技場側では空手道場のしたたか者たちを用心棒として雇い店内警備を任せていました。冝保俊夫さんが有名ですね。

昭和36(1961)年の月間沖縄11月号には

いつの間にかグループが次第に大きくなり、6年前(昭和30年)、23歳の若さで遂に那覇の夜の実権をにぎる文字通りスターにのし上った。スターとは彼の通称シターがなまつたものだが、命を張るような危険もおかさず、那覇を手中におさめた彼は平社員から一足とびに社長になったようなもので、幸運児でもあり、風雲に乗ったともいえよう。

と記載されていますが、実際は用心棒としてタチの悪い客相手に日夜奮闘し(あるいは修羅場を潜り抜けて)、アンダーグランドの世界で絶対的な信用を獲得した上でトップの地位を築いたことが伺えます。そして「スターは強かった」という多くの証言は決してウソではないと実感したブログ主であります(終わり)。

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