名称の考察 – おきなわ編

今月2日、当運営ブログで “名称の考察 – りうきう編” と題した記事を掲載したところ、予想の斜め上を行くアクセス数がありましたので、今回は調子に乗って “おきなわ” の名称について考察します。

結論を先に申し上げると “りうきう” が外来語であるのに対し、”おきなわ” は地元固有の地名なんです。『沖縄大百科事典(ア~ク)』の427~428㌻、および『おもろさうし』を参照し、ブログ主なりに考察したところ、

1,語源は不明も、古来から沖縄本島の地名として “おきなわ” が使われていたこと。

2,宮古、八重山などの離島は “おきなわ” には含まれていないこと。

になります。2について補足すると、『おもろさうし』には宮古、八重山、久米島、渡名喜、粟国、沖永良部の地名が明記されてますので、少なくとも16世紀までは “おきなわ” には離島地域が含まれていないこと確実です。そしてその点が “りうきう” との大きな違いになります。

それともう一つ、語源について言及しますが、沖縄大百科事典に、「首里の港湾地、泊の安里川河口にあった〈オキナワノ嶽〉を呼称の発祥地とする説は有力である。」と記載されていることと、『おもろさうし』にも地名として “おきなわ” が明記されている件(3の9,6の37など)を鑑みるに、”おきなわ” の地名は

地元の神々によって名付けられた

と見做していいかもしれません。

ただし、明治12年(1879)の廃藩置県後、”おきなわ” が明治政府によって行政用語として正式に採用(例:沖縄県)されたのを機に定義が一変します。それまでは沖縄本島を指す地名に過ぎなかった “おきなわ” が、沖縄県の版図を表す用語となったのです。そして重要なのが、

1,廃藩置県後、初めて “おきなわ” の中に宮古や八重山などの離島地域が含まれるようになった。

2,学校教育の場から、行政用語としての “おきなわ” は定着していった。

件です。つまり “りうきう” とは全く別のパターンで “おきなわ” の用語は民間に定着していったのです。

そして大東亜戦争の敗北後、アメリカの信託統治(いわゆるアメリカ世)の時代になると、”おきなわ” はまたまた定義の変更を余儀なくされます。”りうきう” が行政用語として再び採用されたため、”おきなわ” は廃藩置県以前の沖縄本島を指す地名に先祖返りしてしまったのです。

だがしかし、明治12年以前との違いは、アメリカに対する反発のニュアンスが “おきなわ” に含まれるようななったことです。その傍証として、当時の新聞史料などをチェックすると、これ見よがしに “オキナワ” とか “沖縄人” とかの用語を使用しているケースがあります。

そして、昭和47年(1972)5月の本土復帰に伴い “おきなわ” は明治時代と同じ用法になります。ただし、アメリカ世時代の(権力に対する)反発のニュアンスを含めて “うちな~の心” とか “うちな~んちゅ” として使用するケースが散見され、この点が大日本帝国時代との大きな違いと言えます。

いかがでしょうか。”おきなわ” という呼称の定義が歴史の変遷に伴い、幾度となく変更を余儀なくされたことがお分かりかと思います。現在ではもちろん沖縄県の版図を指す “行政用語” としての “おきなわ” が一般的ですが、 「内面の良心の自由」が保障された昭和47年以降 “おきなわ” の定義は百人百様と言えます。だがしかし、令和以降の沖縄社会において、

アメリカ世の(反権力的な)ニュアンスを含んだ “おきなわ” の用例は絶滅すること間違いない

と確信しているブログ主であります(終わり)。

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