喜舎場さんは暴力団ではない – その1

昭和38(1963)年10月21日、米国民政府高等裁判所(以下民政府高裁)は喜舎場朝信、新城喜史にかかる殺人未遂、証人脅迫事件の初回公判を開きました。

喜舎場と新城は前年11月中旬の又吉世喜の銃撃事件に両者が関わっていた(共同謀議)疑いで起訴されたのですが、公判の過程できわめて興味深い記事が配信されていましたので、その一部を紹介します。沖縄ヤクザネタが好きな読者のみなさん、ぜひご参照ください。

まずは昭和38(1963)年10月21日付沖縄タイムス夕刊です。

喜舎場ら公判開く民政府高裁 初の大陪審員制度適用

民政府高等裁判所は二十一日午前九時半から同裁法廷でステーブンス判事、オトー主任検事、大田副検事、オワード・マクレード主任弁護士、ロイ仲田、比嘉利盛両弁護人立ちあいでコザ市安慶田一一八喜舎場朝信(四〇)、美里村字美里以下不詳、新城義史(三四)にかかる殺人未遂、証人脅迫事件の初回公判を開いた。

昨年十一月中旬、那覇、コザ両派暴力団縄張り争いで、コザ派の喜舎場らが本土から殺し屋の山中一夫を雇い、那覇派の又吉世喜(二九)をピストルで襲撃させた事件。沖縄人に対して初の大陪審員制度による裁判とあって、なりゆきが注目されている。

公判はまずステーブンス判事の起訴事実の説明のあと、陪審員の抽選による選出を行った。一応陪審員席について人たちは厳重な資格審査を受け、起訴事実通りなら有罪にするか、

そのばあい最高刑の死刑にも同意するか

との質問を受けた。(死刑には沖縄女性二人が反対した)こうした審査のあと、許田セイトクさん、赤嶺キヨ子さんら男五人、女七人の在沖米人十二人が陪審員に選ばれた。

喜舎場らは事件後、二万五千㌦で保釈されていたが、証人脅迫の疑いがあり、保釈を取り消され、喜舎場は糸満署、新城は刑務所に留置されていた。

公判廷には喜舎場の両親、朝実さん(七〇)、キヨさん(七〇)らも心配そうに席につき、公判を見守っていた。

また、コザ市議の玉城勝也議員も

たん願書をたずさえて顔をみせた。十一時すぎ、陪審員選出を終え、休廷、午後一時半から再開した。

以前当ブログにてこの裁判が琉球・沖縄史上初の大陪審員制度で開かれた件を紹介しましたが、最高刑として死刑を設定していたことは初めて知りました。参考までに琉球民裁判所では最高刑として死刑が設定され、昭和26(1951)年1月の壺屋強盗殺人事件の主犯高島久雄に対して死刑判決が下った事件がよく知られています。ただし当時の制度で面白いのは琉球民裁判所でいったん死刑判決が下っても、高等弁務官(あるいは直下の恩赦委員会)に自動的に上訴され、そしてすべて無期懲役に減刑されていることです。

この上訴制度は比嘉清哲著『犯罪実話物語 – 沖縄警察50年の流れ』を読んで初めて知ったのですが、今回は琉球民裁判所ではなく、民政府高裁での裁きですので、仮に喜舎場あるいは新城に死刑判決が下された場合はどうなるのか、きわめて興味深いところではあります。

この裁判において、玉城克也コザ市議が嘆願書を携えて法廷に現れた件もじわじわきます。この嘆願書は同年2月14日に開催された「喜舎場朝信を救う会」で約200名の区民が嘆願書に署名した旨の記事が琉球新報に掲載されていましたが、そのときに作成されたもので間違いないでしょう。喜舎場を救う会を開催した際の玉城議員のコメントは以下参照ください。

玉城克也氏の話 社会の人たちは喜舎場さんを誤解している。彼は遊んでいた若い者たちを更正こそさせたが、市民に迷惑をかけたことは一度もない。コザ地区防犯協会から表彰されたこともあり、

模範的な一市民である。

私たちは彼の人となりをよく知っており、毎日もんもんしているのをみてしのびないと思い励まそうと思いこの会をもった。

昭和38(1963)年2月15日付琉球新報7面

アメリカ世の時代の模範的な一市民の基準が令和の今日とは大きく違うなと痛感したブログ主であります。最後に沖縄タイムスの記事には法廷に現れた喜舎場さんの写真が掲載されてましたが、立派な中年太りの体系にはやはりじわじわ来ざるを得ません(続く)。

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