大正六年の沖縄の野球 – 社会人チーム

今回は大正6(1917)年9月に開催された「本社主催第二回県下野球大会彙報」から社会人3チーム(沖台野球俱楽部、強襲軍、中山俱楽部)のチーム紹介記事を書き写しました。

ブログ主が参加6チームの紹介記事をチェックして気がついた点は

1、身長および体重などの身体的特徴の記載がほとんどない

沖台野球俱楽部のライト島袋が「十六貫で渾身皆力ホームランヒットは受合」の体と記載がありますが、16貫=60キロですから現代規準からすれば小柄な部類です。確か当時の成人男子の平均身長が160センチ前後(体重は50キロを超えたあたり)なので、これは現在の13~14歳男子の標準体型になります。体力レベルは現代の”少年野球”よりちょっと上なのかもしれません。

2、利き腕の記載がない

唯一の例外が強襲軍のセンター野口(左利き)で、これは出場選手のほとんどすべてが右利きで間違いないです。あと右打ち、左打ちの記載もないため、右投げ左打ちはいなかったんだなと推測されます。

3、控え選手がすくない。

現代の高校野球を例にとると、地方大会のベンチ入りは20名、甲子園大会は18名です。当時の野球規則に「野球規則第廿八條に規定せる補欠選手の數は各組に於て參名以内とす」とあり、ベンチ入りメンバーが最大12名であったことが分かります。これだと仮にレギュラー選手に事故があった場合は試合進行に支障がでる恐れがあります。特に投手は大変だったと思われます。

ほかにもいろいろ気がついた点はありますが、とりあえず社会人3チームの選手紹介全文を書き写しましたので野球好きの読者の皆さんはぜひご参照ください。

まずは製糖工場のチーム「沖台(ちゅうたい)野球俱楽部」です。

本社主催第二回縣下野球大會彙報

◆ 腕揃ひの沖台野球俱樂部

◇ 瀉原々頭縣下の好球兒を熱狂せしめん ◇

沖台(ちゅうたい)野球俱樂部は今から四十余日前に孤々の聲を上げたのであるが、本社野球大會の報に接して安閑としても居られず、愈々大會に參加すべく奮ひ立たのである。而して烈日熱風と戰ひながら猛練習を開始し

▲各選手腕が 泣き出す位夢中になつて今次の大會に縣下の好球兒を熱狂せしめやうとして居るが、先づ投手の野間口から槍玉に上げて見やう。君は健やかな体格と台灣台北俱樂部や盬水港製糖會社で鍛へた腕で中山軍の猛打を封せやうとして居る。捕手の靑田

▲慶大舊選手 佐々木神吉君等に仕込まれ菅瀬等とも一所に練習したもので腕は確なもの。一壘の田名は身体こそ小さいが滅多に球を見逃さない好プレヤーである。二壘の溝口は肩を痛めて居るがいざと云ふ塲合には

▲何者も恐れ ず進む强者で、三壘の安樂は台灣で野間口等と共に鍛へ上げたもので野球と來たら安樂として居られない一人である。遊擊の近藤は香川縣立三豊中學で三高選手の浮田君のコーチを受けた好手で三度の飯よりも野球が好きという快漢、右翼の島袋

▲十六貫の体 で渾身皆力ホームランヒットは受合と言有樣。中堅左翼は學生時代に仕込だもので昔を思ひ出して立たのであるから此度は如何なる活躍をなすか知れない外間原口の兩人。森の彌次團長振りは今から其の本能を發揮する事と推察せらるる奮へゝ中台野球團……

次は名前と応援歌が勇ましい強襲軍チームです。このチームには左利きの外野手がいます。

▲ 愛すべき強襲軍の意氣

◇ 優勝を期せる選手諸君 ◇

昨秋の强襲軍は强かりさうで强くもなかつたが、本年は可成り出來る選手が加た樣であるから昨秋よりは少し見榮のある試合を見せてくれるであらう。其の

▲軍容を見る に投手としてはコントロール秀た戸間立ち其補佐役には縣下一の捕手とも言はれて居る宮田本壘に頑張て己が矢に刺し止め樣とし、一壘には元商校選手死(アウト)となりに來る者は誰々とミツト帖にポンゝ音高く付けやうとして居るかと思へば、二壘には上野ジヤガタラ先生二壘は

▲明渡すもの かと内地台灣で仕込だ晴技で斃さうとし、三壘には慶田死守す。遊擊にはモーション遲いながら他有志の遊擊に勝る主將西あり。左翼には照屋二中で鍛錬した守備振を發揮して守り、中堅には左利の野口來る球なら左手でも取て見せるとはね廻て居る。右翼には猛打に名を得た座喜味

▲强肩で本壘 と言はず何處でも敵を刺さうとして其勢は他チーム何糞と言ふ盬梅。ナイン及び應援歌左の通り

応援歌

瀉原々頭風ゆるく 戰雲亂る秋の日や

堅氷鐵を鍛ひたる 强襲健兒の腕の花

咲かすは今ぞ時は來ぬ 立てや强襲野球團

最後に新たに結成された中山俱楽部のチーム紹介です。

▲ 新鋭の中山俱樂部

◇ 投手捕手共腕はたしか ◇

年は寄つても昔取つた杵は忘れらるものとかとて兼島主將奔走し選手を集め首里城運動塲に火の出る樣な練習をして居るとは實に痛でもあり又快でその

▲意氣は愛す べく又賞すべきである。此度は必ず沖台(ちゅうたい)とクロスゲームを演ず事と思ふ。山城は昨秋聯合軍の投手で昨秋こそ俄仕込だつたので失態を演じたが今度は必ず其鐵碗に敵を弄殺するであらう。丈六尺位(180㌢)の老獪與那原は己が本壘に踏張て居る中は一人でも入れないと云ふ

▲意氣込みで 一壘の富原又昔の腕を磨き上げて打手の一擧一足に注視し、二壘手國友内外野に疾驅して守り老練の糸滿三壘に構へて居る。兼島主將は大關門の遊擊に扣へて全軍のチームワークに注意して隙なからしめ、左翼手具志新たに中山軍選手に加はり妙技を示さうとして居る。中堅の樞要地には重鎭渡嘉敷が見張つて

▲巧名を立て やうとすれば、スタープレヤー大城は右翼にまはり守備を堅めて居る。攻擊又恐るべきもので沖臺との戰には定めてロングヒットを出す事であらう。選手人名左の通り(大正6年9月7日付琉球新報3面)

 

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