当間重剛さんの嘆きとオール沖縄

ブログ主は沖縄ヤクザ関連の史料蒐集のため、連日沖縄県立図書館を訪れていますが、昭和36(1961)年12月の琉球新報をチェックしている際に、偶然にも当間重剛さんの回想録が連載されていることに気が付きました。

当間さんは戦前戦後ともに琉球・沖縄の政治の中心にいた人物で、ブログ主も昭和44(1969)年3月に発行された『当間重剛回想録』を所持しています。当ブログの記事作成の際にも大活躍している書籍ですが、その中で昭和36年12月27日付琉球新報に掲載されていた最終話の内容が極めて興味深かったので紹介します。

補足として当間さんは昭和31(1956)年11月、比嘉秀平主席の急死に伴い主席に就任します。そして昭和34(1959)年10月に任期満了で主席を退任しますが、その間の大きな政治問題は「軍用地問題」であり、彼は主席として問題解決に奮闘します。昭和27年から始まる軍用地問題についての説明は省きますが、彼が問題解決にいかに神経をすり減らしたか、そしてどのような心境で対米交渉に臨んだのかを下記引用から伺うことができます。

理解されなかった政党論

沖縄の政局は軍用地問題でふたたび安定をとりもどした。もうあれほど長期にわたって反米感情をあおった問題はなくなり、世の中はしだいに薄モヤが消えて行くように明るくなってきた。

この土地問題のために私の前任者であった比嘉秀平主席も頭を悩し、問題解決の曙光も見ずに死亡したし、私自身、那覇市長時代から、いつの間にか自分が軍用地問題の渦の中にまき込まれているのを発見、主席になってもそれが最も大きな政治問題となっていたのだ。自分の信念を率直に吐露したため、ある時は脅迫状まで舞い込み、それに気づいた警察が私邸に制服私服の警官を派遣して警護に当たらせ、さすがに気丈夫な年老いた母まで多少の不安感を抱かしめるようなことまであった。またあるときは「一括払い必ずしも反対ではない」と言ったことが一般には寛容と理解の精神をもっては受けとられず、売国奴とののしられ米国の手先とそしられたこともたびたびだった。

〔しかし〕私は自分の信念を曲げなかったことを、顧りみても恥じるところのない明鏡止水の心境をうれしく思っている。このすがすがしい心境というのは巨万の富、いかなる地位にもかえられないものだ。

私は主席として3年の任期を終えそのバトンを、自ら熊本から呼んだ副主席の大田政作君に渡したとき、これで自分としての責任は果たせたという喜びの気持ちでいっぱいだった。

那覇市長選挙の疲れがたたって今病床にあるが、今夜は奇しくも1961年のクリスマスイブだ。ラジオは静かにホワイトクリスマスの曲を流し外ではクリスマス・ツリーの装飾灯がさんぜんと輝き、街はにぎやかさがあふれている。15年前までは考えてもみられなかった光景だ。もう1961年もくれるのか。私の頭は走馬灯のように終戦この方いろいろな事件がつぎつぎと新しく記憶の中によみがえってくる。裸のまま米軍の捕虜にされたこと、志喜屋知事の政府入り、那覇市長時代の一括払い放言、主席としては道理に叶った方向に信念を押し通し時に反感を買ったこと等々。

しかし、今こうして過ぎしこの方を回想すると、終戦後の私の行動は対米的なものにしぼられるような気がする。住民には、私もふくめて、もともと潜在的には反米意識しかなかった。たとえ米人が善意でやったことであるにしろ、彼らの行為をそのまま善意として受けとるわけには行かなかった。とくに終戦当時は「彼らはいつかは帰るんだ」という気持ちがあったから、彼ら米人の非行に対しても目をつぶって観念した気持ちになったことも再三ではない。しかし、余りの深刻さに怒りを爆発させたこともあった。米軍はいつの時代に、何年たったら帰るか予想もつかぬし、そういう考えさえ許され〔ぬ〕客観的情勢だ。ことにその間における米兵の暴虐ぶりには事件のたびに切歯扼腕ふんまんやるところもなかった。したがって私は米軍に協力する気もなかったが、そうかといってそのまま放置するわけにもいかず、勧められるまま志喜屋政府入りをしたが、米政府の態度は表面上はともかく実際にはわれわれの意見に一顧だに与えないと解釈されたのは遺憾であった。

しかし徐々に沖縄人の能力を理解したためと思われるが、態度を改め、とくに朝鮮事変後、彼ら米軍がいよいよ長期駐留することがわかっていらい、彼らの態度も変わってきたのだろうと思う。前主席の比嘉君も、米軍は沖縄人の物の考え方を軽視するきらいがあるといっていたが、それも米政府の出先機関の掌に当たっている米人が低級であったためと思われるフシが各面から察知されるのだ。

しかし一面、彼らが自分の意見を強く支持する場合には、それ相当の資料をもっての主張であったことも、われわれとしては反省しなければならぬことだろう。時うつり世は変わり、米軍も沖縄の事情を理解するようになり、沖縄人も相手を理解しようと努力を払っている。そこにはあるていどの妥協も生まれようが、やはり言語、風俗習慣の相違から来る相互理解のていどに大きなミゾがあることはおおうべくもない。

顧みると、私は政党をつくらなかった。ある人はそれを政党否定と呼んだが、私の真意はそこにあったのではない。

終戦この方沖縄政治の相手は米国である。したがって全住民が政党党派を超越し、打って一丸となって理をつくし筋を通せば住民は十分米国に理解してもらえたはずだ。それを私は政党人にかわってもらいたかった。

私は日本の政治家から「米国は琉球内の分断策をとっている」と言われたことを覚えている。私は一応それを否定はした。しかし、否定したはずのその言葉が、しこりのように残り、ひょいひょい頭に浮かんでくるのはどう説明すべきだろうか。

引用元:昭和36年12月27日付琉球新報1面

上記の最終話は、当間さんに限らず当時の琉球住民たちの一般的な感想とみて差し支えありません。敗戦のツケの重さを感じる内容ですが、ブログ主は最後の部分「顧みると、私は政党をつくらなかった(以下略)」に非常な興味を持ちました。

・終戦この方沖縄政治の相手は米国である。

・全住民が政党党派を超越し、打って一丸となって理をつくし筋を通せば住民は十分米国に理解してもらえたはずだ。

・私は日本の政治家から「米国は琉球内の分断策をとっている」と言われたことを覚えている。

これらの箇所はどっかで聞いたことあると思いませんか。つまりオール沖縄の活動理念の原型がまさにこれなのです。言い直すと、

・復帰後この方沖縄政治の相手は日本政府である。

・全住民が党派を超越し、一丸となって理をつくし筋を通せば日本政府に理解してもらえたはずだ。

・日本政府は(基地政策を含む)沖縄に対して分断政策を取っている。

になりましょうか。故翁長雄志氏がそこまで意識していたかは不明ですが、現代のオール沖縄の原型が昭和27年から始まる土地問題、すなわち “島ぐるみ闘争” であることは疑いの余地がありません。

さらに踏み込んでみると、当間さんの発想はハッキリいって大政翼賛会の理念そのまんまなんですよ。それもそのはず彼は昭和16(1941)年12月に大政翼賛会沖縄県支部の事務局長に就任していますから、

全員一丸となって誠意を尽くして対応すれば目的は成就する

との発想を抱くのはある意味当然かもしれません。逆に言えば、「目的が達成できないのは、全員が一丸になっていないからだ。すなわち敵が分断政策を取っているからだ」との発想となり、当間さんと翁長雄志氏の考えは奇妙なほど一致します。

ブログ主は琉球・沖縄の歴史を学ぶなら、一度は大政翼賛会の時代についてまじめに取り組む必要があると痛感しています。理由は翼賛会時代の沖縄社会の知識がないと、アメリカ世の社会の変遷が正確に理解できないからです。ただし沖縄の現代史はあまりにも旧沖縄革新共闘会議に有利な歴史観で記述されていますし、なによりもその歴史観に依存している階層が強すぎるのです。現時点では夢物語かもしれませんが、いつの日か本格的に取り組んでみたいと思うブログ主であります。(終わり)

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