復帰協が残した教訓 – その2 経歴

(続き)今回は、宮里松正著『米国支配27年の回想』から昭和35(1960)年4月28日から昭和46年(1971)11月10日までの復帰協に関する年表を作成してみました。

実は復帰協の結成はは三度目の正直で、アメリカ世時代の復帰運動を支援する団体の経歴を簡単に紹介すると、最初は社会大衆党が主導して昭和26年4月末に発足した「日本復帰促進期成会」、2回目が沖縄教職員会が主導して昭和28年1月10日に発足した「沖縄諸島祖国復帰期成会」があります。

復帰協は過去2度の失敗の経験を生かして、①政党の参加を含む幅広い団体からの加盟申請を受付、➁財政基盤を強化、③復帰運動にとどまらず、沖縄社会がかかわる問題についても積極的に活動していく方針で運営され、実際にアメリカ世時代の大衆運動を先導する役割を担い続けました。

大雑把ではあります、復帰協の結成から全盛期(65~69年)、そして凋落に向かう流れが年表で把握できますので、読者のみなさんぜひご参照ください。なお昭和46年11月10日の沖縄ゼネスト警察官殺傷事件の案件は宮里松正さんの著書には記載されていないため、当時の記事を参照にブログ主が加筆しました。

昭和35年04月28日

沖縄県祖国復帰協議会(通称「復帰協」)は、対日平和条約が発効して沖縄が米国の施政権下に置かれるようになった4月28日を期して、沖縄タイムスホールで結成大会を開催し、正式に発足した。

同日、復帰協に加盟したのは、沖縄教職会、沖縄青年団協議会、沖縄婦人連合会、沖縄市町村長会、沖縄官公庁職員労働組合、沖縄全逓信労働組合、沖縄自治体職員労働組合等17団体であった。政党のうち、社大党、社会党、人民党の3党はこれに参加したが、任命主席の与党の立場にあって、行政の運営に当たっていた沖縄自民党は、これに参加しなかった。

昭和36年04月28日

復帰協は、対日平和条約が発効して沖縄が米国の施政権下に置かれるようになった日にあたって、第2回目の祖国復帰総決起大会を開催した。それ以来この日を「屈辱の日」と名付け、毎年祖国復帰運動を要求する県民総決起大会を開催するようになった。

昭和36年05月17日

復帰協は、米国民政府が復帰協代表の本土への渡航許可申請を拒否したことに対して抗議のデモ行進を行ったが、その際に琉球大学の学生24名が検挙された。琉球大学の評議員会は、これらの学生たちのうち、5名に無期停学、13名に戒告の処分を行った。

昭和36年05月19日

復帰協の代表団は、本土の国会や各政党に「沖縄の祖国復帰の実現」を要請するために上京した。

昭和37年04月28日

復帰協は、対日平和条約の発効10周年にあたって、「祖国復帰要求県民総決起大会」を開催した。

昭和38年04月27日

復帰協は、国頭村の辺戸岬で、第1回目の「祖国復帰要求たき火大会」を開催した。これは、本土側の関係団体と協議のうえで、本土側が与論島で行うたき火大会と相呼応する形で実行され、参加者に深い感銘と連帯感を与えた。そして、このたき火大会は、それ以来毎年4月27日に実施されることになった。

昭和38年04月28日

復帰協は、本土側関係団体との共催で、辺戸岬と与論島の中間にある北緯27度線の海上で、第1回の「祖国復帰要求会場集会」を開催した。この海上集会もそれ以来、毎年4月28日の早朝に実行されるようになった。

昭和38年04月28日

復帰協は、那覇市の神原中学校校庭で、「祖国復帰要求県民総決起大会」を開催した。この総決起大会も、それ以来毎年実施されるようになり、復帰協の最大の年中行事となった。

昭和39年04月27日

復帰協は、本土側の支援団体と協議のうえ、沖縄本島最北端の辺戸岬で2回目のたき火大会を開催し、本土側の支援団体は、与論島でたき火をしてこれに呼応した。

昭和39年04月28日

復帰協は、北緯27度線の海上で本土側の支援団体と合流して、第2回の祖国復帰貫徹海上集会を開催し、また、同日の夕刻には、祖国復帰要求県民総決起大会を、那覇、宮古、久米島、西表の5会場で開催した。

昭和40年04月09日

復帰協は、米軍のベトナム戦争への介入に抗議する県民大会を開催した。

昭和40年04月24日

復帰協は、立法院内構内で「復帰貫徹」のハンガー・ストライキを開始した。

昭和40年04月27日

復帰協は、沖縄本島最北端の辺戸岬で第3回目の「祖国復帰要求たき火大会」を開催した。これに対して本土側の支援団体は、与論島で前2回と同様にたき火大会をして呼応してくれた。

昭和40年04月28日

復帰協は、「沖縄返還デー」と銘打って、那覇市の神原小学校で「祖国復帰要求県民総決起大会」を開催した。この総決起大会には、約8万人の県民大衆が参加したが、これと並行して東京でも「沖縄返還要求全国大会」が開催された。

昭和40年08月19日

佐藤首相は、ワトソン高等弁務官の招待で、沖縄の現状を視察するために、2泊3日の日程で、現職の首相としては、戦後初めて沖縄を訪問した。同行してきたのは、中村梅吉文部大臣、鈴木善幸厚生大臣、安井謙総理府総務長官、橋本登美三郎官房長官、田中角栄自民党幹事長、大浜信泉総理特別顧問ら42名であった。

佐藤首相は、那覇空港で開催された歓迎集会で、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わらない」と挨拶し、県民に感銘を与えた。

佐藤首相は、直ちに琉球政府を訪問して松岡政保主席、長嶺秋夫立法院議長、仲松恵爽琉球上訴裁判所主席判事らと会談し、沖縄に対する大幅な援助を約束した。

次いで佐藤首相は、米国民政府でワトソン高等弁務官と会談し、沖縄の教育や社会福祉問題等に対する日本政府の援助の強化等について懇談した。

その後、佐藤首相は、南部戦跡を参拝した後、那覇市の国映館で開催された「総理を迎える会」」の歓迎会に出席し、「極東の平和と安定のために沖縄が果たしている役割りは、極めて重大である」と挨拶した。

そして、同日の夕刻、ワトソン高等弁務官主催の歓迎レセプションが北谷村のキャンプ・ズケランにあるフォート・バクナー将校クラブで開催され、それに出席した後宿泊先である東急ホテルに帰る予定であった。

ところが、その頃から東急ホテル前の1号線は、復帰協のデモ隊に〔深夜〕まで占拠されたため、佐藤首相一行は、ホテルに帰れず、米軍施設内での宿泊を余儀なくされた。

昭和41年04月11日

復帰協の「祖国復帰要求大行進」は、立法院前を出発し、国頭村の辺戸岬に向かった。

昭和41年04月28日

対日平和条約が発効して沖縄が本土から分離されて米国の施政権下に置かれるようになった日にあたり、復帰協は、本土側の「沖縄返還要求国民運動協議会(社会党系)」と「沖縄返還国民運動実行委員会(共産党系)」との3者の共催で、北緯27度線の海上で「沖縄返還要求海上大会」を開催した。

同日の夕刻には、那覇市神里原の神原小学校の校庭で「祖国復帰要求県民総決起大会」が開催された。

昭和42年04月13日

復帰協の祖国復帰要求大行進弾は、立法院横広場で、即時全面復帰の実現を要求する宣言を行った後、東西の2隊に分かれて沖縄本島最北端の辺戸岬に向かって行進を開始した。

昭和42年04月27日

国頭村の辺戸岬で4.28の前夜祭と北部3村合同の祖国復帰要求大会を兼ねた「かがり火大会」が開催された。

昭和42年04月28日

復帰協は、第5回沖縄返還要求海上集会を北緯27度の海上で開催し、これには、復帰協の代表団と本土側支援団体のチャーター船30隻が参加した。

昭和42年04月28日

復帰協は、第7回祖国復帰要求県民総決起大会を那覇市の与儀公園で開催した。

昭和43年04月27日

復帰協の祖国復帰要求かがり火大会が祖国復帰要求北部3村大会を兼ねて国頭村の辺戸岬で開催された。一方、本土の支援団体は、与論島でこれに呼応した。

昭和43年04月28日

第6回の沖縄返還要求海上集会が北緯27度線の海上で開催された。

昭和43年04月28日

復帰協の第8回の祖国復帰要求県民総決起大会が那覇、宮古、八重山、久米島の4会場で開催された。

那覇市の与儀公園で開催された主会場には、日本社会党、民社党、沖縄連等の代表も参加した。

昭和44年04月22日

復帰協の4月28日の沖縄デーに向けた東京行動隊の330名は、琉球海運のひめゆり丸で上京した。

昭和44年04月28日

復帰協は、第7回目の沖縄返還要求海上集会を北緯27度線の海上で開催した。これには、沖縄側から喜屋武真栄会長以下200人と本土側から松本三益代表以下600人が参加した。

昭和44年04月28日

復帰協は、第9回目の祖国復帰要求県民総決起大会を那覇市の与儀公園で開催し、主催者の発表で17万人がこれに参加した。

昭和44年06月23日

復帰協は、今年から慰霊の日を「反戦の日」と改め、嘉手納中学校の校庭で、①日米安保状況の廃棄、B52型戦略爆撃機部隊の撤去、③即時無条件全面返還等を要求する県民大会を開催した。これは、復帰協が路線転換を図ったものとして注目された。

昭和45年04月20日

復帰協は、第15回定期総会を開催し、70年(昭和45年)度の運動方針を決定した。運動方針では、「日米共同声明路線を粉砕する」とか「県民の要求する完全な復帰を実現する」等、いよいよ革新色が強くなっていた。

昭和45年04月28日

復帰協は、4.28沖縄返還デーにあたって、日米共同声明路線を粉砕し、完全復帰を要求する県民総決起大会を開催したが、参加者は、大幅に減少していた。

昭和46年04月28日

復帰協(桃原用行会長代行)は、4.28の沖縄返還デーにあたって「日米共同声明路線の返還協定を粉砕し、完全復帰を要求する県民総決起大会」を開催したが、参加者は激減し、往年の面影はなかった。

昭和46年11月10日

復帰協は、那覇市与儀公園で約6万人(主催者発表)の「沖縄返還協定批准反対完全復帰要求県民総決起大会」を開催したが、大会後のデモは火炎瓶や投石などが乱れ飛ぶなど荒れに荒れ、その騒ぎのなかで警官1人が死亡した。事件の影響は大きく、翌11日午前10時に開かれた執行委員会でゼネストに対する総括は持ち越された。

事件に関して復帰協は「機動隊員が死んだことと復帰協とは直接関係ない。大会やデモには過激派学生の参加を認めておらず、ましてデモ隊列とは関係ない」と桃原会長が談話を発表した。

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