瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと~恩知らずカメジローの巻

前回の記事で瀬長亀次郎さんが中国戦線から復員した昭和15年(1940)以降、平良辰雄さん(1892~1969)のお世話になっていたことを記述しました。その縁があって、沖縄戦終了後の捕虜収容所の時代(田井等)においても瀬長さんは平良辰雄さんの下で再び働くことになります(平良辰雄さんは収容所の市長に就任、瀬長さんは庶務課長として勤務しています)。

だがしかし、昭和21年に平良さんと瀬長さんの関係に亀裂が入ります。それは農連(戦前の沖縄農業会の後継団体)設立の話が持ち上がり、平良さんをはじめ旧沖縄農業会の幹部を中心に設立委員会が発足したのですが、瀬長さんは農連設立に反対の立場を取ったのです。理由は「農連は農民を搾取するおそれがある。農民組合的なものをつくるのが妥当だ」とのことですが、結局昭和21年(1946年)4月27日に平良辰雄さんを会長として「沖縄農連」が設立することになります。

その後、瀬長さんは平良さんと袂を分かって「うるま新報」に就職、そして社長に就任します。それと平行して昭和21年に設立された沖縄議会(民選ではなく米軍による任命制で、先に発足した沖縄民政府の諮問機関的な役割があった)に豊見城村代表として選出されています。これが瀬長さんの政界デビューで、この人事は沖縄民政府の総務部長を務めた又吉康和(またよし・こうわ)さんの意向が反映された結果だと言われています。

昭和22年(1947)7月に瀬長さんは沖縄人民党の結成に参加、そして党の勢力拡大のため沖縄本島を遊説することになりますが、ブログ主は昭和22年(1947)9月3日と4日に国頭村の奥間初等学校での演説記録を見つけましたので、この場を借りて紹介します。ちなみに突っ込みどころ満載の内容ですが、まずは全文をご参照ください(沖縄県公文書館 – 琉球政府文書 – 政党に関する書類(2)演説記録から抜粋)。

私は今、知念に住んで居ります。

全世界の民族は今民主主義に向かって進みつつあります。

基本的に民主主義とは戦勝国民も敗戦国民も新しい平和を建設して行こうと言うのが民主主義でありますが、もっと深い民主主義はあらゆる力を結集して軍国主義的封建的保守反動分子との戦いであります。

民主主義の大指導者ルーズベルトはアメリカが敗戦、又敗戦をしているときでも指導者は民衆が苦しい時に全民衆の公論を聞き民意に応じてあらゆる政治力を結集して全民衆に秘●なく実情を明かして協力を求めてついに勝利に導いた。又スターリンは「我々は遂に勝利者となった、然し(しかし)勝利者は常に批判される事を知らねばならぬ、我々は自らを批判し最善を尽くすべきである」と教えた。敗戦の憂目(うきめ)を見た日本の東條は民意を無視し独専政治を行い、特高警察を以て秘密を保持し人民の耳、口、目を塞ぎ、無理から民衆を戦争にかりたてた。所謂(いわゆる)徹底的軍国主義的封建主義者の標本であった。今迄我々の頭の中に入れ込まれたのはこの軍国主義である。之を取りのけなければならぬ。之をとりのけるには私はこの説明の為に危険思想を説明致します。

ここで宗教思想等各国の危険思想を説明す……

我々沖縄人の運命はロンドンに繋がりニューヨーク、南京、東京に繋がっている。即ち沖縄を支配する者は他国であることを思わねばならぬ。我々を支配するこの者を恐れることなく見極め、我々の生きる道を求めねばならぬ。慎重に現実のこの姿を批判して、この中からのみ沖縄民族解放の道を見出さねばならぬ。この道は人民自治政府の樹立に依り、知事は我々の要求を要れ全力を尽くして我々に責任を持ち得る代表者であらねばならぬ。斯かるときなるが故に我々は此の際日本の軍国主義に協力した指導者は自発的に公職を退いて貰わねばならぬ。之即ち人人民党の口から叫ぶ公職追放令であります。然るに諮詢会(しじゅんかい)なるものも日本時代に於て戦争を指導して来た県会議員からなり、民政府の役人達も大部分がそれであるがため、公職追放令の答申案に対して白紙を出した。

日本の東久邇宮が「日本は上は大元帥から下は一兵卒迄同様に戦争に協力したから日本には該当者は全国民である」と言って全世界の物笑いとなった。沖縄にも正しくこの例に等しい、彼等は沖縄からこの該当者を出した場合、沖縄は指導者がないと申しますが、勇気と熱のある若い人物は野人にいくらでもある、若いものに政治をまかしたら混乱すると言いますが、若い者は或は間違いを起こすこともあり易いかもわかりませんが、しかし若い者は正当に批判され得る能力と間違いをとりなおす能力がある。

公職追放令の適用を勘弁してくれと言ったのは誰か……之即ち保守反動分子であります。

それから闇(経済)にたいする政策は何であるか……米国の政策は尻上り式政策をとって居る。例えば島内生産者が3あれば7の補給をする、4あれば6、5あれば5の補給をすると言うようなやり方である。これでは何時までも一ぱいゝ(いっぱいいっぱい)で身動きがとれないから闇は絶たない。だから5の生産があっても7の補給を持続させるよう軍政府に交渉して余裕を持たせるようにすれば闇は解消する。よく英雄主義と言って口だけは私が何をしてやると大きなことを言って実行の伴わない英雄主義者の多いことを残念に思うのでありますが、真の英雄主義者の基本的態度は報いられる事を期待せず、献身的努力をする者である。我々は前者の如き英雄主義者を一掃して各職場より後者の如き英雄を我々の代表として送り出し、集会結社言論の自由等すべて名目だけ自由であって治安警察法があるため真の自由が得られない、我々はこの撤廃を要求し得る勇気ある主体をつくらねばならない、之はあらゆる勤労団体が結束して一致団結し英雄病者のもつ所謂知事になり度い(なりたい)、知事病とか言うようなものを治さねばならぬ。私は1人でも良い斯る同志の出ん事を我が沖縄民族の為に希望し報いられる事を期待する事なく努力あらんことをお願いしてご挨拶にかえ度い次第であります。

ちなみに結党時の人民党の政策(A-政治)の4番目に“公職追放令の全面的適用”とありますが、そうなると瀬長亀次郎さんは翼賛壮年団の総務(あるいは沖縄農業会の総務課長)でしたので真っ先に追放確定です(しかも、瀬長さん沖縄民政府傘下の沖縄議会に参加)。厚顔無恥(ずうずうしい)とはまさにこのことで、自分を棚に上げてよくこんな演説ができたものだとブログ主は妙に感心した次第です。

しかも公職追放令を厳密に適用すると、戦後沖縄の農民のために尽くそうと農連を設立して活動している平良辰雄さんもその対象になります(平良さんは翼賛壮年団の団長を務めていました)。恩人に向かって弓を引く態度を平然とやらかしていた事実にブログ主は唖然とした気分になりました。伊波普猷氏の「沖縄人の最大欠点は恩を忘れ易い」という指摘そのままではありませんか。

もしかすると、今の普天間基地の辺野古移設反対の活動家たちは、瀬長さんの悪いところだけを受け継いだのかもしれません(続く)。


【参考リンクサイト】

沖縄県公文書館 – 琉球政府文書 – 政党に関する書類(2)演説記録

http://www.archives.pref.okinawa.jp/ryukyu_government/5610

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