教員は中立犯さない

現在ブログ主は、昭和42年(1967年)における「教公二法関連」の当時の新聞や回顧録等を調べています。沖縄県立図書館(現在郷土資料室のみ利用可)では当時の新聞が閲覧できますし、ブログ主自身でも回顧録等を購入してできる限りの資料集めに奮闘していますが、その中で貴重な証言を見つけましたので今回の記事にて紹介します。

その前に“教公二法”とは何か?について大雑把に説明すると、「地方教育区公務員法」と「教育公務員特例法」のことで、教職員の権利義務を規定する法案になります。具体的には本土の「教育二法」のように、教職員の身分の保障、政治活動や争議行為の禁止などが規定されています。この法案作成の経緯について今回は説明を省きますが、当時の沖縄教職員会は「沖縄の特殊事情を考慮し、権利はできる限り制限しないほうがいい」と主張して反対します。

教職員会長(当時)の屋良朝苗氏は、その著書において「沖縄は過密な米軍基地の中にある。そこから起こる具体的な問題に対処してゆくうちに、教職員の多くは、政治意識のうえで革新的にならざるを得なかった。それを、政治活動の制限や勤評という手段で型にはまった教職員につくり変えようとする。教職員会が取り組む復帰運動が政治活動として抑えられては大変だ。教職員だけではなく他の労働団体や大衆も心配した。」(『屋良朝苗回顧録』 80㌻)と記載していますが、当時の教職員たちは全体的に政治意識が革新よりであったのは事実で、そのことを保守系の人たちは快く思っていませんでした。

ちなみに立法院(いまの沖縄県議会)議長(昭和42年当時)の長嶺秋夫氏は、「沖縄では教職員に対する地域住民の信頼が厚いが、その教職員が選挙では常に革新共闘サイドで活動していた。教壇で『こういう候補はだめ』と話しているなどのうわさもあって、私たち民主党(いまの自民党沖縄県連)は快く思っていなかった」(『屋良朝苗回顧録』81㌻)と述べています。果たして当時の教職員たちが「中立性」を持って職務遂行していたのか、実は意外な人の証言があります。是非ご参照ください。

県民が二つに割れての闘争でした。 

 学校の教師たちは革新の陣営に属していました。教師をしていた父の妹が「兄さん、こめんね」と父を訪ねて来て、泣いているのを見たことありました。「学校で村八分にされるから断れない」といって相手陣営の運動をやらされていたのです。

 小学六年のとき、立法院議員選挙(昭和37年)があり、父が負けました。私は選挙結果を聞きに行こうと職員室に行ったところ、黒板に大書された「翁長助静」に「×」、相手方の名前に「◎」を付けて、私の担任を含めた教職員100人ほどが万歳三唱をしていました。

 私は父も担任の先生も尊敬していたので、胸が引き裂かれるような思いに駆られたことを覚えています。

 中学三年のときには、兄が立法院議員選挙に出馬して(昭和40年)、私の小学校、中学の先生たちは百数十人が全員で相手候補の名前を連呼しながら、通学区域を歩いて回っていました。私は一人で「オナガ、オナガ」と訴えました。

 先生たちがストを打つと、授業は自習になって遊べるため、生徒たちは喜びます。私が高校一年のとき、生徒が先生に、

「今度はいつストがあるんですか?」と聞くと、先生は、

「翁長に聞け。あいつは親父も兄貴も自由民主党員だ。彼らが強行しようとしているときがストの時だ」と言いました。

 占領下、沖縄県の主体性確保や人権獲得を掲げた復帰運動のはざまでは、教育現場でこうしたことが行われたのもまた現実でした。相手の革新陣営が間違っているという意味ではありません。ただ、当時の沖縄の現状、時代がそうさせたのであり、保守陣営もまた別のかたちで革新側を攻撃していたのだと思います。(『戦う民意』 162~163㌻)

証言主は翁長雄志氏で、彼の少年時代の沖縄の教育現場の実態を伺うことができます。当時の沖縄教職員会の建前としては「教育の中立性は保たれている」として、その上での「教員の自由の拡大」を唱えていたのですが、実態は上記の証言の通り「中立性」に欠けていたと看做して間違いないでしょう。少年時代にこんな体験をすれば、翁長氏が「保革を超えた政治勢力を結集したい」との大志を抱くのも無理はありません。

ちなみにタイトルの「教員は中立を犯さない」のフレーズは昭和42年(1967年)1月26日の琉球新報朝刊からの抜粋で、池原貞雄琉大教授のコメントも掲載されています。(下記参照)(注:この記事は昭和42年1月25日の文教教育委員会における教公二法の強行採決におけるコメント。強行採決に関する説明は今回省きます)

なんの実質審議もせず、警官隊を導入するという無理をして、単独採決する必要がいったいあるのか。敗戦後、無一文のなかから、えいえいと教育を盛りあげてきた教職員の功績は大きい。また教職員がこれまで教育の中立をおかしてきたとも考えられない。教師も教壇を離れれば一市民とし、自分の信念を表明しその信念のもとに行動することは当然のことで、これは敎育の中立をゆがめたことにはならない。また本土にも同様な法律があるということも立法の口実にされているが、憲法で人権を守られている本土と沖縄とでは、大きな条件のちがいもあり、これを無視して、性急に立法する必要はない。住民が納得できるような審議をしてほしかった。

翁長知事の証言のあとに、当時の琉球新報の記事を読むと、「よくもこんなコメントを載せたもんだ」と思わざるを得ません。池原教授はともかく、記者たちは教育現場の実態を知っていたはずです(知らないとは言わせたくない)。当時も現代のように「おとなのじじょう」とやらで革新勢力に忖度して記事を掲載しないと新聞社が経営できなかったのでしょうか。今も昔もマスコミは変わらないなと思いつつ今回の記事を終えます。


・1967.01.26 琉球新報朝刊7面

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