昭和41年12月7日沖縄タイムス夕刊3面の記事

本日(4月13日)ブログ主は沖縄県立図書館にて、“教公二法”と“昭和53年の沖縄県知事選挙”に関する史料チェック中に面白い記事を複数発見しました。せっかくなので史料として当ブログにて掲載します。

以前に“裁判移送問題と中村議員の失踪”の記事を掲載しましたが、昭和41年(1966年)12月7日の沖縄タイムス夕刊3面に『とんだ人騒がせ – 真相は本人だけしか知らぬ』のタイトルで中村晄兆(なかむら・てるあき)議員失踪事件について記事が掲載されていました。この事件は戦後沖縄における最大級の謎事件ですので、史料入手次第、不定期ですが当ブログにて情報提供していく予定です。

昭和41年12月7日(水曜日)沖縄タイムス(夕刊)3面

”中村晄兆失踪 -” 今年七月の新聞はこの事件でもちきりだった。裁判移送問題を本土政府、国会に訴えるため立法院代表の長嶺議長、安里、中村の両議員は、七月三日上京、代表は五日佐藤首相と会ったあと中村議員は、その夜から宿舎の第一ホテルにも現れず姿を消した。六日、七日、八日の公式日程にも姿をみせず何の連絡もなく長嶺議長はじめ報道陣もこれはただごとではない、と九日の朝刊から本土紙も大きく報じた。これを見た同議員は九日よる十時四十分ごろ、東京在の元秘書に”歯がいたくてあるところに入院している”旨電話で連絡、元気でいることが確認された。しかしその後一向に姿をみせず、報道陣は、その所在探しにやっきとなった。ついに十一日、本人から長嶺議長、安里議員に居場所を知らせ、記者団も入院先の渋谷の歯科医院にどっと押しかけた。カメラマンも含めて報道陣はおよそ六十人。病院前のせまい道路は報道陣の車であふれた。まったく大がかりな取材合戦だった。当初は、女性関係で暴力団の報復説、スパイ説、米国政府のちょう報関係の圧力、事故死などなど – 憶測もみだれとんで報道陣も色めきたったが「歯が痛くて入院していました」と記者団の前にあらわれたときは気合抜け、人さわがせもひどい、と東京の事件記者もこんな事件ははじめてだ、と記者会見のあとさっさとひきあげて行った。

当の中村氏は、その事件で立法院の議席もフイにし議員生活も棒にふった。その後人前にはいっさい姿をみせず雲がくれしてしまった。”ほんとに歯だけのものだったのか。裏に何かあるのではないか”とかんぐる向きもいぜん根強く残っているが、真相は本人だけしか知らない。体がまいっていたことは確かなようだ。現在は東京・北区に住んでいるようでまだ通院して体の調子をととのえているようだ。中村さんは、沖縄との連絡も断って、”親分”の吉元栄真民主党副総統さえまったくつんぼさじきにされている。中村さんは、司法試験をパスしているが二年の司法研修をおえていないので、来年四月から修習を受け、将来は弁護士として本土で生活をたてるようだ。

”中村事件”のきっかけでその後、東京に来る沖縄の各陳情団は、時間や行動には非常に気をつかうようになった。第二次、第三次裁判移送も要請団も慎重そのもの。私的用件には、行き場所、居場所も連絡しあい、側でみていて少々おかしくなるくらいだった。その間松岡主席は、八月十一日佐藤首相との会見の約束時間に二十分も遅れて、ジダンダをふんだことがあって新聞記事にされたが各種東京折衝団は、ことのほか時間を気にするようになった。これは、いままでどちらかというと沖縄の折衝団は”沖縄タイム”に慣れているせいか時間にはルーズな方だった。これが今度は事件のおかげ(?)でひきしまってきた。その意味で中村事件はいい教訓を残してくれたが、その代償はあまりにも大きい。沖縄にも帰れず、ともに政治活動をしていた同士とも没交渉でまったく孤独の身のようだ。本人は、社会復帰(?)の道は残されていると考えているようで、今度は司法研修生として法律の勉強にはげみ、弁護士として再出発するかまえとみえる。また、民主党議員の中には、中村氏の実力を十分評価している人もあり、年齢も若いのだからどうにか表へ出してもう一度花道に立たせたい、と考えている人もいる。

この真相は、本人だけしか知らないが、本土の左翼陣営にとっては、米国まで行っている人が単に歯が痛いというだけの理由であのような鼓動はとれるものではない、米国政府の陰謀だときめつける人もあり、これは、日本政府にとっても重大な問題であるので国会で真相をただすべきだ、とする意見もまだ残っている。報道陣もまだこの事件をすてたわけではなく内々に追求している。中村氏の側の逃避ぎせが出たこと、ウカツだったことなどが原因らしくとられている。

とにかく中村事件の内外に与えた影響は大きかった。1966年は、裁判移送問題から派生した事件として立法院の議席も変え、沖縄の政治史の汚点を残す結果となった。中村氏は、このような不名誉のばんかいを考えていたようだが、今後は法律家として立派に再出発することを祈りたい。(東京・宮城慶次記者)

【参考】昭和42年12月7日(水曜日)沖縄タイムス(夕刊)3面

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