残波岬の決闘(昭和39年度)

昭和39年(1964年)の”残波岬に決闘”に関しては相反する伝聞情報が多くてどれが事実か判断できません。現時点で公開されている情報を二つ掲載します。

1965年9月9日付琉球新報特集記事『組織暴力(6)』より抜粋

(中略)那覇派の又吉世喜は二十二、三歳のとき、すでに那覇でいちばんの”豪”のものとうわさされ、壷屋一帯に集まる若ものたちの頭目となった。さる五四、五年ごろである。又吉は、配下のものとともに、那覇公設市場周辺の用心棒などをして、力を誇った。そのとき、那覇市内には、もう一人の「強者」がいた。現在はある有名会社の重役におさまっているN(とくに名を秘す)である。Nも平和通りや国際通りで、用心棒などをしてノシ歩いた。又吉とNは、しだいに相反目した。

Nは、若い又吉が、腕力にものをいわせて急激に台頭したことを、おもしろく思っていなかった。又吉も『Nは那覇一帯の強者』だという世間の風評を聞くことがたまらなかった。二人の反目は頂点に達し、ついに『決闘』となった。その結果は又吉に軍配があがった。敗者の屈辱にたえきれず、Nはこれを機にキッパリ暴力団の世界から足を洗った。これは『残波岬の決闘』と呼ばれている(下略)。

追想冝保俊夫 49~51㌻より抜粋

門弟がグループを結成

終戦間もない頃の那覇市平和通りなどの目抜き通りでは「もみくじ」と呼ばれる街頭賭博も行われていた。だが、「もみくじ」が警察の取り締まりで一掃されると、今度は警察当局の許可を得た「コロコロ」や「ビンゴ」「ラッキーホール」という遊技場があちこちに出現した。客を装った「さくら」や用心棒は空手道場の門下生が多く、縄張りも自然に生まれた。

昭和28(1953)年、沖縄でも大阪同様にパチンコが許可されると、この遊技場は次第に廃れ、各地でパチンコ店が営業を始めた。パチンコ遊戯は吉浜照訓が琉球政府、那覇署、市町村会、教職員会、PTA連合会、青年連合会、婦人連合会、全島校長会、キリスト教連盟などの強い反対を押し切って実現にこぎつけていた。吉浜も那覇市内で二つのパチンコ店を開業したが、遊戯客の中にタチの悪い者もいて、あちこちのパチンコ店で店員にいやがらせをしたり、パチンコ台をたたくなど他の遊戯客に迷惑をかけていた。その苦情がパチンコ組合にも寄せられたのである。比嘉佑直は一時期パチンコ店の顧問もしていたので、吉浜は比嘉に相談すると、比嘉が冝保に指示したらしく、冝保がその客を呼び出して痛めつけ、いやがらせを防いだという。

ある時、5,6 人の男の誘いに応じて連れて行かれると、親分らしい大柄の人物が冝保を待っていた。「さては集団で自分を痛めつけるつもりだな」と直感した冝保は機先を制して「誰も手を出すな。正々堂々と一対一で勝負しよう」と大柄の男に向かって言った。男たちは予定が狂ったのか、その場は何事もなく治まったという。冝保は「もし一対一で勝負しようと言わなかったら集団で襲われ、ひどい目にあっていた」と語った。

昭和39(1964)年、比嘉は那覇市壺屋の自宅一階に空手道場「究道館」を開設、本格的に空手指導を行った。この頃から究道館の門弟たちは冝保を中心にグループ(究道会)をつくった。

この頃、「残波岬の決闘」と話題になった出来事もあった。比嘉佑直空手道場の門下生(冝保が中心)と宮里栄一空手道場の門下生(又吉世喜が中心)が対立、恩納村の「残波岬で決着をつけよう」と、それぞれトラック4,5 台に分乗、残波岬でにらみあい一触即発の状況だった。この時、冝保は 10 歳年下の又吉(昭和8年生まれ)に対して「ここでケンカをしたら死人が出るがよいのか」と念をおしたという。結局、双方が和解し、「決闘」には至らなかった。その後、又吉は那覇派の親分として君臨したが、昭和36年(1961年)から3回もコザ派に襲われ、最後は暗殺された(下略)。

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