沖縄の高校野球のもうひとりの恩人について

去る8月11日に行われた第99回全国高等学校野球選手権大会の大会第4日目、興南高校と智弁和歌山高校との一戦は6-9で智弁和歌山高校が勝利しました。我が沖縄代表の興南高校は健闘むなしく初戦敗退しましたが、この悔しさをばねに興南高校がより強いチームを作り全国の舞台で活躍することを強く期待します。

現在の沖縄の高校球児は本土チームに対するコンプレックスはありません。「普通にやれば勝てる」と思っているので、近年は全国あるいは九州大会でコンスタントに実績を残しています。典型例が今年春の九州大会初戦で、九州国際大付属高校にコールド勝ちした美来工科高校でしょう。かつてよく言われた「ユニフォーム負け(相手チームの名前にびびって本来の力を出せないこと)」することは最早ありません。実に頼もしい限りです。

ただしここまでの道のりが実に長かったです。沖縄の高校野球のレベルアップに貢献された人物としてご存知の通り栽弘義さん(1941~2007)がいますが、実はもう一人の大恩人がいます。その人は元琉球政府行政主席大田政作氏(1904~1999)です。その理由はこの方が副主席時代(1957~59)に奥武山野球場(現沖縄セルラースタジアム那覇)の建設に尽力、および完成にこぎつけたからです。奥武山野球場は昭和35年(1960)12月に完成しますが、そのときの経緯は『私の戦後史第5集 大田政作編』から抜粋しますので、是非ご参照ください。

副主席時代(1957/12/20~1959/10/20)は約2年間だが、その間、B円から米ドルへの通貨切り替えや台湾訪問、凍結されていた那覇市の都市計画補助金・融資引き出しなど自ら中心となって行った。

那覇市への援助再開にあたっては首都建設委員会を発足され7つの事業を推薦したが、そのなかでも奥武山スポーツセンターは私の発案によるものだ。当時とていわば食うや食わずのころ。このような時にそんなものをつくる必要があるのか、という反対の声はもちろんあったが、今やらねばこういう施設はいつまでも後回しになる。そのころ、那覇高校の手ぜまな校庭で野球をやっていたが、これでは本土に肩を並べていけない。そして何よりも若い人に活力を与えねばならないと決意した。

はじめは野球と他のスポーツもできるような施設を考えたが、ある日、早稲田の先輩でもある高野連の佐伯達夫副会長(当時)に率直な話を聞かせてくれと頼んだところ「あんたの考えはどうも素人くさい。それぞれ規格があり一をもって二を兼ねるわけにはいかん」とのこと。そこで資金を追加して作業を手直し、規格にあった球場を先につくることにした。その後、琉球政府資金などで球場を中心に陸上競技場、庭球場、水泳プールを配した。

球場は昭和35年12月に完成したが、今度は維持管理の問題が持ち上がり、関係者から那覇市が革新市長とのことで難色があったが、私(当時、主席)は「スポーツにイデオロギーはいらんではないか」と押し切って兼次市長に依頼した。

奥武山野球場は沖縄の高校野球のレベルアップに貢献します。これはブログ主の伝聞ですが、野球場が出来る前の沖縄の高校野球は那覇高校などのグラウンドで公式戦を行っていました。ただしグラウンドには外野フェンスがなく、ホームベースから100m付近にラインを引いて、打球がラインを超えたらホームラン(あるいは2塁打)とのルールで試合が行われていた、奥武山野球場が出来て初めて「三塁打」および「クッションボールの処理」の概念が入ってきたとのことです。

戦後沖縄の高校野球は奥武山野球場が建設されてから初めてスタートしたと言っても過言ではなく、球場建設に尽力した大田政作氏の功績は高校野球ファンとしては是非とも知っておかなければならないのです。ちなみに球場建設から8年後の昭和43年(1968)、興南高校野球チームが夏の甲子園大会でベスト4に進出して、球場建設の成果が早速現れます。沖縄県の高校野球ファンは大田政作氏の先見の明に感謝しても足りないほどの恩恵を受けているのですが、その功績を知る人は殆どいません。実に残念のことと言わざるを得ません。(終わり)。


参考までに『当間重剛回想録』に昭和43年(1968)の興南旋風のときに沖縄社会の様子が記載されていました。是非ご参照ください。

沖縄球史を飾る興南高校の快挙

―甲子園で準決勝に進出―

昭和43年の朝日新聞社、高野連主催の夏の甲子園大会(全国高校野球大会)で、沖縄代表の興南高校チームが、準決勝まで勝ち進み、全国高校野球のベスト4にランクされたことは、沖縄球史を飾る一大快挙であった。従来の甲子園の戦歴からみて、まあせめて2勝ぐらいあげてもらえればと思っていたところ、その堂々たる勝ちっぷり、しかも荒けずりのダイナミックな試合運びに、試合のある日は、全住民がテレビやラジオにかじりついて、かたずを飲んでその試合を見守ったものだ。那覇市の国際通りが、さながら死の街のように、閑散として静まりかえったものである。『私たちが生まれてから、はじめてのことでもありますし、またとおがめるか、おがめないかわかりませんからね』とは、その日の私の乗ったタクシー運転手の言葉だが、試合がはじまるや、会社公認のサボタージュよろしく、車1台、猫1匹那覇の街には見当たらないありさまだった。

戦績は次の通り。

8月9日第一戦、興南5-3岡谷工(長野)

8月16日第二戦、興南8-5岐阜南(岐阜)

8月19日第三戦、興南4-0海星(長崎)

8月20日準々決勝 興南10-4盛岡一(岩手)

8月21日準決勝 興南0-14興国(大阪)

興南高校の選手が、これだけの成績をおさめたことは、テレビをみながら感じたことだが、勝敗を意識せず、固くならないで伸び伸びと試合を運んだ故と思う。平素の練習の力が十分に発揮されたということであろう。スポーツの分野に限らず、中央に対して、辺地特有のコンプレックスとか、必要以上な緊張感がこの興南高校の活躍によって解きほぐされた意義を高く買いたい。(当間重剛回想録、1969年、当間重剛回想録刊行会より抜粋)

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