泉崎と旭町のまちがたり

先日ブログ主は那覇市泉崎にあるバスターミナルを散歩中に興味深い石碑を見つけましたので撮影してきました。「泉崎と旭町のまちがたり」と題した石碑には明治初期と現在の泉崎・旭町との対比および琉球八景図も掲載されて非常に充実した内容ですが、とりわけブログ主の目を引いたのが明治初期の那覇港の様子が描かれた『首里那覇絵図』です。説明文を書き写しましたので読者のみなさん是非ご参照ください。

琉球王国の王城 – 首里城 – がそびえる「首里」、貿易・外交の拠点として港を中心に栄える「那覇」。15世紀頃から首里と那覇のまちは歴史の表舞台に登場します。

「那覇」は、外国の使節の迎え入れや交易のために、橋や道路が整備され、やがて東村、西村、若狭町村、泉崎村の那覇四町が誕生し、現在のまちの原型が作られました。

また、那覇港の近くに中国から渡来した人達が定住し久米村(クニンダ)と呼ばれるようになりました。

当時「泉崎」の丘陵側(通称:上泉)は、緑深い「城岳」の麓にあり、現在は閑静な住宅地になりました。現県庁付近には、以前は湧田焼きで知られる湧田窯があり、登り窯から絶え間なく煙が立ち登っていました。一方、漫湖沿岸域(通称:下泉)で久茂地川と国場川が合流する中洲部分は「仲島」とよばれ、芭蕉がたなびき仲島蕉園と呼ばれた風光明媚な地区でした。近世には一時花街も形成され、現在でも飲食店が軒を並べています。

久茂地川と国場川の合流域に位置する「旭町」は、大正期から戦後初期にかけて埋め立てられて出来た町です。戦前は軽便鉄道那覇停車場駅前の材木問屋や飲食街として、戦後はバスターミナル前に様々な会館建物が立地し、賑わった地域です。

21世紀に入り、『泉崎・旭町』はモノレール開業と再開発事業により、多くの人々が集う那覇のまちの玄関口として生まれ変わろうとしています。

明治初期の那覇・首里の絵地図と、右に掲載された地図を比較すると、大規模な埋め立て工事によって現在の那覇市が成り立っていることが分かります。それだけでも興味をそそる内容ですが、それ以上に気になるのが『首里那覇図』の右下にある那覇港の様子です。蒸気船が来航している様子が見受けられますので、確かに明治期に作成された図であることは分かりますが、よくみると接岸している船の数が非常に少ないのです。

ためしに沖縄県立図書館の公式サイトで公開されている『首里那覇図』のリンクを貼り付けておきます。接岸している船が二艘しか確認できません。

首里那覇図(明治元年~明治12年頃)

もうひとつ、沖縄県立図書館蔵の『那覇絵図』も参考までにリンクを貼り付けておきます。この図のほうが非常にわかりやすいのですが、接岸している大型船がほとんどありません。日の丸を掲げた蒸気船が那覇港に接岸することができず、小舟を利用して上陸している様子がはっきりわかります。

那覇絵図(明治14年頃)

これらの資料から、やはり当時の那覇港は大量物資の輸送には不向きであったことが分かります。以前当ブログで「125年前の那覇港の様子」と題した記事を配信し、那覇港は大量物資に不向きであったと言及しましたが、それを裏付けする史料と言えます。ちなみに那覇港が大量物資の輸送に対応できるようになったのは、アメリカ世の時代に1万㌧クラスの船舶が複数接岸できるように大拡張工事がなされてからといっても過言ではありません。

そうなると15世紀から16世紀にかけてのいわゆる大交易時代にはいったい何を運搬していたのか、明らかに大量物資の輸送には不向きの港で支配地域が潤うだけの交易があったのか極めて疑問に思わざるを得ません。港絵図だけで推測するのはいささか乱暴な議論ですが、物資の輸送能力という観点からみると、従来の大交易時代の仮説に疑問を呈することぐらい別にいいだろうと考えているブログ主であります(終わり)。

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