理性を失った人たちの姿

ここ最近ブログ主は“教公二法”関連の史料集めを行っています。不定期に図書館等に通って当時(昭和42年)の新聞や関係著書をチェックしているのですが、その中に興味深い記事がありました。教公二法に関しての詳細は後日アップすることにして、今回は昭和42年2月25日の琉球新報のコラムの書き写しを掲載します。

・話の卵 – 理性を失った人たちの姿

昨日(二十四日)の立法院周辺の教公二法阻止請願は、二万人を動員してついに教公二法案の本会議延期に追い込んだがこの問題にはいろいろの批判があり、与野党、請願団体ともに反省すべき要素を残して、一応は五月いっぱい審議をしないことになり、事実上廃案になるらしく一応のケリがついた。

しかしこれで問題が解決したわけでなく、教公二法をめぐって良識ある人たちが、まるで理性もない暴徒のような行動をしたことは、立法院の議会阻止とともに、いつまでも忘れてはならないわれわれの汚点になったことを深く悲しむとともにどんなことがあっても再び立法院周辺を血でよごしてはならない反省が必要だ。

与野党、請願団体ともに民主主義を表カンバンにしながら、自ら民主主義に泥をぬってしまった。民主主義とは「人民による統治をいう」と素朴な考えに立って考えても、われわれ自身で選んだ選良たちもお互いの立ち場や党利党略にだけ終始し、与党が議案を数で押し切ろうとすれば、野党も院外の力を借りてこれをハネのけてしまう。

これでは民主主義の住民の幸福、自由、平和という大きな目標が泣いてしまうだろう。事実、立法院前の警官隊と請願団体のもみあいが、早朝は警官隊が請願団体をごぼう抜きにし、午前十時前後からあべこべに請願団体が警官隊をごぼう抜きにして、立法院前から警官を排除?していたのは情けない風景で子どもに見せたくないものだった。

請願団体は二万人を動員したそうだが、あの中には純粋に教公二法案を阻止するためにきたのか、もみ合いを高見の見物にきたのかわからないヤジ馬もいたと見えて、警官隊が群衆にもみぬかれている姿をゲラゲラ笑ってながめているものもおり、請願団体も警官隊ももみあいで必死になって気がつかなかったろうが、これは決して二度も三度もやれるものではない。

目的が何であれ、群衆の力を借りたり、警官隊を導入して議会を動かすような非常事態は、今回かぎりでごめんこうむりたい。きのうの先生たちのもみあいをみた子供たちに、先生にたいする不信感や尊厳を傷つけなかったという保証はない。先生たちにとって教公二法案は重大問題かも知れないが子供たちの目からみれば、先生たちの理性のない姿に強烈な印象を受けたと、ある高校生はいっていた。

当時の新聞を読むと、沖縄二紙(タイムス、新報)はどちらかと言えば教公二法を阻止する勢力(教職員会等)寄りの記事掲載が多いのですが、上記のコラムは「読者の声」としてではなく、新聞社の本音がコラムとして掲載された珍しいケースと言えます。それだけ昭和42年2月24日、立法院を包囲した請願隊(教職員会中心)の行動が衝撃だったのかもしれません。

今回何故この記事を掲載したか、それは先月23日に辺野古ゲート前で行われた抗議活動「基地建設を止める奇跡の一週間」の参加者と、50年以上前の教公二法阻止闘争の請願隊との行動パターンが似ていると感じたからです。教公二法のときは請願隊の統制がまったく取れず、立法院は完全に包囲(院内にも入り込んできた)され与党議員は軟禁され、生命の危機すら感じる非常事態になりました。その後は議会が3ヶ月近くも空転、法案は廃案となりましたが予算審議が後回しにされたので、結局のところ一般住民が迷惑をこうむる結末になります。

今回の「奇跡の一週間」の抗議活動とやらは、結局のところ工事は止められず、しかも地元住民が渋滞によって迷惑を蒙っただけです。ブログ主から見ると、「たんに暴れたかった(ただし加齢により物理的行動は不可)だけの一週間」で、教公二法のときと同様「理性を失った人たちの姿」を目の当たりにして悲しい気持ちすらなります。

教公二法に反対した当時の教職員会会長の屋良朝苗氏は、その理由として

 いったい沖縄の将来は、どのように進展していくであろうか。確然たる見通しは何びともこれをたてることはできないのではないか。そのような沖縄の将来に対する教育的対策は何か。それはいかなる局面、いかなる事態に遭遇しても、その進むべき方向を誤ることなく、敢然と自己ならびに民族の運命を開拓し得るに足る人をもってこれに備えていくということが、教育者の信念でなければならない。その人は、あくまでもあらゆる創意と独創の力を生み出す人間的誠意を根源にして、創造性ゆたかにして、自主主体的なたくましい人間像が想定される。(沖縄はだまっていられない – 教公二法に反対する理由からの抜粋)

と述べていますが、23日の辺野古のデモに参加した人は、果たして上記のような人物に該当するのか?自主主体的にたくましい人間像が想定される=正義のためなら他者に迷惑をかけても構わないと考える連中にしか見えませんがブログ主の思い過ごしでしょうか。地下の屋良さんに直接聞いてみたい心境です。(終わり)

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