琉米修好条約の顛末(下)

前回の記事において、安政元年(1854)に締結された琉米修好条約が、明治5年(1872)の琉球藩の設置によって日本政府に引き継がれる経緯について説明しました。そうなると、明治政府側で条文を把握する必要があり、外務省は琉球藩に対して条約正文(原本)の提出を要求します。前回も記載しましたが、明治5年9月28日付けで琉球藩の外交事務を外務省が管轄する令達が発せられます。

○琉球藩

先年来琉球藩ニ於テ各国ト取結候條約並ニ今後交際ノ事務外務省ニテ管轄候事

明治五年九月二十八日

明治6年(1873)3月3日、伊地知貞馨が外務省六等出仕として琉球に着任します。彼は赴任後すぐに米仏蘭3カ国と締結した条約の原本の提出を藩庁に命じます。そのときの令達は下記をご参照ください。

○壬申(明治五年)九月二十八日、太政官達ニ基キ更ニ左ノ如ク外務省ヨリ相達ス。

琉球藩

於当藩、先年西洋各国ヘ取組相成候「条約書」都テ可被差出候也

明治六年三月六日 外務省

同年4月14日に三司官および伊江王子印で、伊地知に条約原本ではなく、謄本を代りに提出したい旨の嘆願書を提出します。

○四月十四日、幸地親雲上、貞馨旅館ヘ来リ、米仏蘭三国ト取結タル条約書・写差出左ノ通リ願出タリ

先年於当藩、仏米蘭三国ト取結候条約原書差出旨御達相成、早速可差出筈ニ候共、当藩ノ儀、海中之小藩、何篇不自ニ有之西洋各国ト致交易候品柄迚(とても)全無御座、取組仕候条約モ致屢哀訴乍、漸致納得候譯合ニテ、当藩内極々疲弊御座候モ、根源十余年之間、各国之船々致来港、接待向旁過分之出費相掛上之事ニ御座候、此後致来船談判等仕候モノ無之、別而無心許御座候、文面事実都テ先日差出候写書通御座候間、本書之分者当藩ヘ致格護置候様仕度、何卒内情御汲御聞済被下候様奉願候、此段御願申上候也。

明治六年四月十四日 浦添親方印、川平親方印、宜野湾親方印、伊江王子印

外務省六等出仕 伊知地貞馨殿

琉球藩が条約原本の提出を渋った理由は、「今後外国船到来の際に条約本文が手元にないと、談判(外交交渉)に支障がでる恐れがある。」になりましょうか(なお余計な哀願文句が多くて意味が掴みにくい)。それに対する外務省の回答は下記をご参照ください。

条約ニ付其藩ニテ談判致候節ハ、必シモ基本書ヲ要セス、若条約上ニ異論相生シ候時ハ、其主任タル本省無之テハ不都合ニ候条、総テ取揃可差出来

明治六年九月十八日 外務省印。

『琉球処分の全貌』の著者である仲里譲氏の解説も併記します。

この文書は、外交談判の時の主務官庁は外務省であるから、総てを揃えて提出せよという、命令的回答である。条約締結の権利が、国家にあるのは国際法の基本的前提である。琉球藩は国家でなくなったと考えると、この命令は当然の態度といえる。しかし当時は、このような国際法上の知識に欠如していたこともあろうし、又琉球では「国家が滅亡したわけではなく、従前の如く琉球藩は国家としての体面は維持されている」という認識に立っていた。

この時の明治政府と琉球藩との交渉は実に興味深いものがあります。上記の仲里氏の解説どおり、琉球藩側は「藩が設置されてもこれまで通りの国家の体面は維持される」という認識だったことは間違いありません。「琉球はもはや国家ではない」という明治政府との認識のずれは最後まで修正されず、結果として明治12年(1879)の廃藩置県が断行されることになったと言えます。

琉米修好条約の顛末は、条約を明治政府が引き継ぐことで、アメリカ側がかつては独立国として看做した琉球の日本帰属を事実上認めたことになり、その過程で琉球側の意向が全く反映されなかったことに尽きます。大国の都合で独立国と扱われて国際条約を強請・締結を余儀なくされ、18年後にはあっさり手のひらを返された残念な政権が当時の琉球国だったのです。19世紀における国際外交の無慈悲な一面をまざまざと見せつけられて、ブログ主は正直あまりいい気分になれません。だから国際条約を締結した事実を持って、「琉球は独立国だった」と主張する人たちは、実に御目出度い人だなと思わざるを得ません。(終わり)

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