突っ込まざるを得ない記事 / 修羅の邦

今回はブログ主が入手した新聞史料の一部から、突っ込まざるを得ない内容の記事をピックアップしました。アメリカ世時代の “カオス感” は現代人であるブログ主からみると驚きの一言ですが、”沖縄裏面史” が伺える内容でもありますから、いろいろ調べるのが意外に楽しくなります。

今回は昭和37(1962)年の1~2月期から、ブログ主が厳選したじわじわ感溢れる記事を紹介します。読者のみなさん是非ご参照ください。

酒励の邦

旧正月でやらかした酔っぱらいのお話です。当時はこの手のハイレベルな “大トラ” が普通に生息していたことがわかります。

はと笛

〇…〔2月〕6日午後9時ごろ旧正オソトに酔った那覇市寄宮、無職Tさん(34)、酔い覚ましにと那覇港近くの海外で旧正月の泳ぎ初め

〇…ところが魚も死んでぷかぷか白いハラを見せる季節。酔いざめどころかさらに酔いがまわって洋服のぬぎ場所もすっかりわすれ「おれの洋服を誰かが盗んだ」と真っ裸でわめきちらし、大通りを闊歩してくるのをパトカーが保護した。

〇…一方那覇ふ頭にぬがれている洋服やクツを見つけたお巡りさん「これ投身自殺?」と早合点して、岸壁をさがしたり各方面に問い合わせやら大騒動。2~3時間後に本人は保護房でグーグー夢路をたどっているとわかり、当のお巡さんはあきれるやら怒るやら(昭和37年2月8日付琉球新報7面)

しょう油

バーベキューの調味料として使うつもりだったのでしょうか?

米兵がしょうゆ盗む

【コザ】11日午後11時30分ごろコザ市照屋119、森田孟好さん(40)の経営する雑貨店から米兵2人が4合入りしょう油10本を盗んで逃げようとするのを通行人が発見、MPに連絡して捕まえた。(昭和37年2月12日付琉球新報夕刊3面)

修羅の邦

当時の那覇は犯罪発生ゼロがニュースになるレベルの治安状況だったことがわかります。

那覇署管内 / 事件発生ゼロ

17日の那覇市内は「犯罪事件発生ゼロの日」だった。わずかに2人の酔っ払いが保護され、酒気運転1人が検挙されただけで、傷害沙汰など凶悪事件の発生や無銭飲食といった事件の発生は1件もなく、

まれに見る静かな週末だった。

これが平日だと強盗、傷害、暴行などの凶悪事件が相ついで発生している。

「事件発生ゼロ」という突然変異?

に署員もビックリしている。(昭和37年2月18日付琉球新報夕刊3面)

ダニ退治

昭和37(1962)年1月中旬、琉球警察は那覇署とコザ署合同で組織暴力と看做されていた集団(コザ派・那覇派)のいっせい手入れを行ない、グループの主だった連中を逮捕・拘置します。その後治安が劇的によくなった旨の内容ですが、まずは記事をご参照ください。

効果あげたダニ退治

暴力発生ゼロの日 / 一般住民から喜ばれる

那覇、コザ両署の大がかりな暴力団手入れの効果てきめん、各地区繁華街の暴力犯がめっきり減ったことに水商売や遊技場経営者たちは「これで商売もやりやすくなる」と警察の労苦に感謝している。

暴力街の異名をもって善良な人たちから非常に恐れられていた那覇市内十貫瀬、ハーバービュー、桜坂などで、この22日夜から24日にかけて暴力犯発生ゼロ。各派出所の勤務日誌をめくっても暴行、傷害事件欄は空白の日がつづいている。

これらの暴力街では1日2~3件の粗暴犯発生は普通の出来事で

夜の繁華街ではこの暴力の黒い影におびえる人たちがおおかっただけに、警察のこの画期的な暴力団狩りは一般住民から非常に喜ばれている。

那覇署では「暴力団のおもだった顔役たちはほとんど検挙したので壊滅的打撃を受けただろう」とみている。那覇市特飲街のある業者は「手入れがあった日から毎晩ゴロゴロしていたチンピラどもがめっきり少なくなった」と喜んではいたが「でも警察が他のドロボーをつかまえようと、暴力取り締まりの手をさかれるとまた一味がのさばってくるのではないでしょうかネ」とつけくわえる。この心配は繁華街に住む人たちが口をそろえていっている(中略)。(昭和37年1月24日付琉球新報夕刊3面)

ちなみに(自称)劇的に改善した治安は 残念ながら1カ月持ちませんでした。試しに下記引用の記事をご参照ください。

第二の暴力団が暗躍

那覇 / チンピラの顔が横行

組織暴力の追放で那覇市内の繁華街の治安は一時おさまっていたが派出所の調べではこんどは4~5人グループの20歳前後のチンピラどもが、わがもの顔に横行してきたといわれ、那覇署では新しく芽ばえて第二の暴力に追い打ちをかける体制をとっている。

この組織のない

“流しの暴力”

はおもに那覇市内神里原の琉映大洋館一帯の飲み屋街、十貫瀬方面に巣食い、酔っぱらい相手にケンカを売ったり、追いはぎを働いたりして、今月にはいって4~5件の集団傷害、強盗傷〔害〕などが那覇市内で起こっている。

この傾向について市内樋川のある飲食業者は「この連中はいま親分になろうとのさばって来ている。いま警察が手を打たなければ組織化してしまうだろう」と心配していた。

那覇署はこの新しい暴力への第一波攻撃として外勤警察の警らを強化、その効果を見てさらにつぎつぎ取り締まり体制を強化しているといっている。(昭和37年2月22日付琉球新報夕刊3面)

参考までに “流しの暴力” の一例は上記の『桜坂のダニ “ポビー” 』の記事をお読みいただくとお分かりかと思われますが、組織暴力と思わしきグループを摘発したら、今度は組織に属しないチンピラたちが暴れ出したという “お約束” の展開です。

言わば琉球警察の失態そのものですが、もちろんそんなこと認めるわけにはいきません。その反動のせいか、後にマスコミおよび警察の那覇・コザ両派への態度がめちゃくちゃ厳しくなります。

ブログ主は常にオチが用意されているアメリカ世時代のことが憎めない反面、当時を生きた人たちの苦労を考えるとちょっと胸が痛くなる次第であります。(終わり)

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