翁長助裕さんが指摘した沖縄の人たちの欠点

ここ数日、ブログ主は伊波普猷先生の論文、「沖縄人の最大欠点」を読んだのがキッカケで、各時代における識者が指摘する沖縄県民(あるいは沖縄県人、琉球人)の欠点についてあれこれ調べていました。ちなみにブログ主は現在の沖縄県民の大欠点の1つは“テーゲーとシムサの発想にある”と仮定していますが、この件については後日記事を掲載する予定です。今回は1960年代の琉球新報に掲載された2つの論文を紹介します。

執筆者は翁長助裕(おながすけひろ)氏で、現沖縄知事の雄志氏の兄にあたります。法政大学大学院を卒業後に琉球新報に掲載された論文ですが、当時の沖縄の人たちの欠点を実に見事に指摘しています。50年後の今日も通じる面がありますので、読者の皆さんご参照下さい。

歴史のひずみ

学生時代の冬休み、友人に招かれて大阪で過したことがある。近所の工場に後輩がいるからということで訪ねて行った。こじんまりとした町工場に働く工員の18名が沖縄からの中卒集団就職組で占められ、その中に1人だけ熊本出身者がまじっていた。そのため両者の間に一種の心理的緊張関係が生じて、それがともすれば労働意欲に支障をきたすという工場主の話だった。数の上からいえば18対1で、1人の出身県を異にするものが被害者意識にとらわれそうなものだが、それとは逆に、ここでは18人の沖縄出身の少年たちがよそ者意識にとらわれ、その悲哀を感じていて、言葉、身振り、ちょっとしたぬけ目のなさ、そういった一歩都会的に洗練された1人の要領のよさに押しまくられて、素朴な少年たちは引きずりまわされているということだった。不思議に敵意や対立関係が生じるわけでもなく、18人の少年たちはひっそりと自分だけのカラの中に閉じこもり、気分は晴れず、大都会の片隅で孤独感と疎外感を持て余しているらしい。だからいくら給料がよく、年々条件がよくなっていくと分かっていても、3年ぐらい働いて郷里に帰りたい。帰ってもおいそれと就職口はなく、先の見通しもたたないのは知りながら、帰ることだけを考えるので、現在の職場への定着性を持ちえないということだった。

さてつい先日、正月休みで東京の一流大学を出て一流会社に就職している友人が帰郷して、しみじみと述懐していた。東京で働きながら、ふと妙な違和感を周囲に対して持つことがある。そして帰郷してみて切実に感じたのが、これまた沖縄的精神風土に対するよそ者的意識だ、という話である。「沖縄」と「日本」の間にそよぐ葦みたいなものだね、と笑い合ったが、お互いに心底から笑えぬものがあった。

私はここに2つの素材を提供した。その素材からなにを引き出すか。それは各人の自由だが、ただいいえることは、そこにはなにか大きな“歴史のひずみ”があって、その“ひずみ”の解決は昨今はやりの「人つくり」に先行する特殊沖縄的な意義をもつのではないかということである。(1964年1月24日 琉球新報)

文化の日雑感 – 政府の施策への反省の日 –

「文化の日」にちなんで、ラジオ沖縄「女性ジャーナル」の座談会に出席した。出席者は琉大助教授の東江正之氏、官公労書記長の平良清安氏、教職員会の山城葉子さんそれに私の4人である。短い時間であったがなかなかおもしろい座談会だった。

戦前の明治節が「文化の日」になってからことしで15年目。沖縄では2回目の「文化の日」を迎えたわけである。11月3日が「文化の日」と制定されたのは、ちょうどその日が新憲法公布の日でもあるからだ。

昭和21年11月3日、神がかり的な因襲と別離して、新生日本のうぶ声にもたとえられる新憲法が誕生した。その第25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定されている。「文化の日」制定の意図をこの第25条と結びつけて考えることはあながち無意味ではあるまい。

法のもとでの平等という民主々義理念が日本において確立されたのは戦後である。いかなる身分的な差別もなく、すべての国民がひとしく健康で文化的な生活を営む権利を、私たちは戦後の新憲法で初めて獲得した。そして政府もその権利を保証し最大限に実現していく義務を負っている。11月3日「文化の日」をそのことの確認と、より充実させていくための日々の生活、政府の施策への反省の日と考えてよいだろう。

沖縄の「文化の日」制定がそれにならったものである以上、その趣旨には少しも変わりがない。だから「文化の日」が単にピクニックだけに終わるリクレーションの日にしてしまってはいけない。沖縄での「文化」の意味を考えてみる必要が大いにありはしないか。

ラジオ沖縄の座談会でもそのことが中心的話題になった。建物がいかにりっぱでもその内容が空虚であっては意味がない。たとえば校舎がどんなにりっぱなものであっても学校備品が貧しく、教育的な環境に恵まれていなくては理想的な教育は望めない。それと同じく「文化の日」が制定されても、そのことが真に一般大衆の生活と密着し一体化されていなくては「文化の日」はいたずらに空転するだけだ。

座談会では政府の文化活動や、文化的な施設にたいする積極的な施策の確立が望まれたが、それ以上に個々の生活状況にたいする批判が活発だった。かけ声ばかりでなく、「文化の日」をほんとうに私たち住民のものにするにはどうあらねばならないか。

私は沖縄の文化は、まさに「テレビ文化」によって象徴されると思う。(注・以下、1963年当時の沖縄の生活レベルで考えてほしい)沖縄はたしかに貧しい島である。貧しいがために文化的な施設に恵まれず、またそれがあってもそれを楽しむ生活的な余裕がない。日々の生活に追われていて読書すら持つ余裕がない。こうした状況にあっては「文化」に浴する機会すらもないだろう。「文化の日」が私たちにピンとこないのもやはりそのあたりに原因がある。だが私たちは果たして自ら文化的な生活を営む努力をやっているだろうか。権利は自らかちとるものであることは歴史が証明しているところである。貧しく目ぼしい家具ひとつとてなく、まして子供たちの机さえないあばら屋に、ピカピカのテレビひとつがデンと構えている光景を思い浮かべてみよう。

私たちは沖縄の「文化的生活」の実体をそこに発見するであろう。テレビの半値で電気洗濯機が買えることに気づかないでいるのだろうか。生活を合理的にしていく努力を個々人がすることによって、初めて文化的な生活を営む権利に目覚めるし、その権利を保障する政府の施策に建設的な目を向ける余裕も出てくるのである。貧しいために今日の享楽に身を沈めてはいけない。あすの計画的な生活への1つの道程としての今日を確立すべきである。

沖縄に住む人々の生活を観察すると、あまりにも無計画であることに気づく。沖縄自体に真のバックボーンが欠けていると同時に、個々の生活自体にもバックボーンがない。お互いの生活を確かめあい向上させていくための大きな視点の設定がなされていない。家を建てるにも結婚式をあげるのにも、いちいちユタに伺いを立てねばならぬ精神的な貧困さを、私たちはあまりにも多く発見する。合理的にものを考える習慣が沖縄にはなく、そのことは確固たる自己精神の確立がなされていないことに起因する生活態度であろう。

戦後、沖縄では物質的な革命が行われた。戦前には想像もつかぬ物質的な繁栄がみられる。しかし精神的な革命はなかったし、いまだにそれが問題にされていない。精神的な革命なくしての物質的革命は、あまりにも皮相的な現象をあらわにしている。今日の享楽的なバック・ボーンが欠けていることに原因するのだ。生活の不合理さのために家庭の主婦はせっかく買ったテレビを楽しむ余裕もなく、ただその月賦に追われるだけである。亭主は貧しい給料の多くを桜坂に投資して少しの反省もない。この生活のムダを解決せずして、たまたま「文化の日」にピクニックをしてもあすにはその疲れが残るだけである。

沖縄ではなにが「文化的」であるかを考える以上に、なにが「非文化的」であるか、なにが「非合理的」であるかを考え、このような非文化的なものを是正していく努力こそが必要であろう。そしてその日々の身近な生活を真剣に反省し、是正していく努力のなかから、沖縄の真の「文化」も確立されていくと思う。したがって私たちは「文化の日」をこのような今日の生活の反省と、あすの生活設計を考える日とすべきではなかろうか – 。というのが座談会の結論でもあった。

考える習慣から自己の主体性が確立されるし、そこから沖縄の政治、経済のあるべき姿を求めることも可能になり、沖縄自体の主体性も獲得されていくのではあるまいか。私たちは沖縄の政治、経済のありかたを論ずると同時に、個々の生活のありかたを真剣に考える必要があると思う。自己の生活の矛盾を解決すべく努力する態度は、大きな政治的な矛盾を打開する努力に直結していく。

大内兵衛教授は私の学生時代につぎのように語ってくれた。「真理はつねに平凡である……」と。(1963年11月6日 琉球新報)

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