西銘県政における最大の業績は何か?

以前に当ブログ内で西銘順治知事時代の業績について記事にしましたが(八重山日報「調査の中で分かった西銘順治氏の存在感」の記事について思ったこと)、今回は西銘県政における最大の業績について考察します。

昭和47年(1972)5月15日に、沖縄が本土復帰して以来、現代にいたるまで7代の知事が就任しています。その中で3期12年知事を務めたのは西銘さん一人で、大日本帝国時代の官選知事時代を見渡しても、奈良原繁知事を除けば西銘知事ほど長期にわたって県政を運営した人物はいません。

彼が長期にわたって県政を運営できた理由は後日考察するとして、今回は西銘県政における最大の業績を挙げてみると、ブログ主は「自衛隊募集業務」を始めて行ったことと断言します。復帰後の1970年代おいて、我が沖縄県における自衛隊員のあつかいは「惨い」の一言で、事実上の差別待遇がまかり通っていた時代です。まさに現代沖縄の黒歴史そのものですが、その雰囲気のなかで「自衛隊員募集業務」を開始した西銘順治知事の功績は強調してもし過ぎることはありません。

昭和56年(1981)1月から18市町村(革新市町村は拒否)で募集業務が開始されたのですが、その結果

  • 自衛隊は革新勢力が喧伝するような存在ではない(旧日本軍のように再び戦争を起こすための軍隊)ことが徐々に県民に浸透してきた点。
  • 昭和42年(1967)2月24日の「立法院包囲案件(教公二法阻止闘争)」の屈辱を晴らしたこと。

になります。自衛隊、あるいは隊員にたいする沖縄県民の態度が徐々に変化していったのがポイントで、現在の沖縄県民には自衛隊員に対する差別・蔑視感情はなくなったといっても過言ではありません。そのキッカケを作ったのが西銘知事時代の「自衛隊員募集業務」の開始で、そのときの経緯は『戦後政治を生きて 西銘順治日記』から抜粋しました。読者の皆さん、是非ご参照ください。


『戦後政治を生きてー西銘順治日記』 1998年、琉球新報社刊行より抜粋

自衛官募集を表明

1979年1月13日 午前十時、本会議終了後お礼あいさつ。午後零時十五分、ティータイム記者会見。午後三時二十分、国場幸太郎。午後六時、旧三役送別会、庁議メンバー、那覇亭。

1979年1月14日 午前十時三十分、第一懇請団隊員成人式(祝辞)、那覇駐とん地。

西銘は就任当初から基地問題に直面する。

1978年暮れに名護市許田で発生した機関銃被弾事件、年明けの1月9日にはグアムからB52戦略爆撃機が嘉手納空港に飛来した。1月13日正午すぎから記者会見。国、米軍、県との三者間で協議体を設置する方針を示した。

会見の中で記者団から自衛官募集業務について質問され、「これはやります。現在検討中であり、担当もまだはっきりしていないが地方課になるだろう」と知事として初の募集受け入れ表明。

自衛官募集業務は全国に設置されている自衛隊地方連絡部を中心に行う。自衛隊法で業務の一部は都道府県知事、市町村に委任されている。

1972年に自衛隊が配備されて以来、革新市町村会(会長・平良良松那覇市長、72年当時21市町村)や革新政党、復帰協などが強く反発、歴代知事は募集業務の協力を拒んできた。

地連部長に約束

西銘発言に先立つ一ヶ月前の78年12月、自衛隊沖縄地方連絡部長・鈴木七郎(陸将補)が知事就任祝いで西銘を訪ねた。

「鈴木さん、防衛の重要性は分かっています。私はいつでも募集業務を受けます」

西銘の言葉に時代の変化を感じた。鈴木は77年7月の着任当初から「沖縄は厳しいから頑張れ」と西部方面総監部や陸上幕僚監部、防衛庁内部部局から激励されていた。「前任知事の平良さんは『いずれ沖縄も避けて通れなくなる』と私に言うが、公式発言は『拒否』。在任中に実現するとは思っていなかった」。西銘の発言に即答せず「上司に相談します」と言って別れた。

さっそく方面総監に報告。総監が陸幕、内局へ「受諾方針」を伝えた。検討の結果、鈴木は次のように支持されたと記憶する。

「知事に就任してすぐに募集業務を引き受けて、今後の県政運営がやりにくくなるといけない。タイミングをみて実施してほしいと伝えるように」

自衛隊成人式に初参加

募集業務受け入れ表明の欲4日、西銘は陸上自衛隊第一混成団(団長・阿野慎平陸将補)の成人式に出席した。歴代県知事が公式行事で自衛隊基地内に入るのは初めてだ。

那覇市鏡水にある陸上自衛隊那覇駐とん地内のグラウンド。曇り空の中、西銘のほか県防衛協会会長の国場幸太郎、衆議院議員の国場幸昌らが来賓として出席した。

グラウンド中央に紅白の幕で飾られた特設ステージ。ジャージ姿の隊員がぐるりと取り囲んでいる。登壇した西銘が左腕を腰に回し新成人を激励した。

「ここであいさつをすることは私にとっても意義あることだ。日本の国防に当っている皆さんが、これからも使命を持って国のために働いてほしい。働け、もっと働け、あくまで働け。平和国家建設のために」

ドイツの宰相ビスマルクの発言を引用し、熱弁をふるう。

「予定には入っていなかったが、隊員たちが騎馬を作って西銘さんと、国場幸太郎さん、それに私を乗せてワッショイ、ワッショイやりだしたんです」

阿野が当時を振り返り愉快げに笑う。自衛隊との間に距離を置いてきた歴代知事。西銘の登場でその距離がぐっと縮まった。

8月から自衛官募集

1979年8月29日 午前九時三十分、面談(自民党県連)。午前十一時、臨時庁議。午後七時、小渡三郎後援会総決起大会、沖縄市営体育館。翁長助裕後援会総決起大会、那覇市民会館。

1979年8月30日 午前十時、面談(海外協会、瑞慶覧氏)。午後三時、要請(沖縄地方同盟松茂良氏ほか)。

1979年8月31日 午前九時、出張(東京ANA80便)

「ああそうですか。もうですか。鈴木さんがこちらにいるうちに募集業務の宣言をしましょう」

1979年7月、異動内示を受けあいさつに訪れた自衛隊沖縄地方連絡部長・鈴木七郎に西銘が言う。1月の自衛官募集業務受け入れ表明後、事務方に対応を指示していたが実施時期は煮詰まっていなかった。7月18日の庁議で8月日の実施を決めた。

保革が対決

自治労、県職労、沖教祖、高教祖、全水道、国公労は六者協議会(代表・比屋根清一沖教祖委員長)を結成、阻止闘争を強化した。(同年)7月27日、自衛官募集業務阻止決起大会を開く。会場の県庁第一庁舎前に六百人が参加。同日開かれた総評大会でも反対決議され、募集業務問題は全国に広がった。

六者協の代表は30日午前、県庁に西銘を訪ね総決起大会の決議文を手渡し業務断念を迫った。

「かつて青年団活動であなたが私たちに自衛隊は違憲だと指導したんでしょう。募集業務を開始するとは何事か。戦時中、友軍に銃を向けられた県民は軍隊がいかに恐ろしいものか知りつつ死んでいった。業務開始はこれらの犠牲者に対する裏腹の行政。再び戦争への道を歩む危険極まりない反動的政策だ」

比屋根の抗議を腕組みして聞いていた西銘が答えた。

「法律で規定された業務なのでやらなければならない。だからといって青少年に自衛隊を強制するものではない。徴兵制でもないので、じわりじわりやっていこうということだ。自衛隊は合法的に設立されたもので、戦争をやるためのものではない。また悪でもない」

一方、23日には保守系三十六市町村の首長で構成する「自由社会を守る沖縄県市町村長会」(会長・桑江朝幸沖縄市長)は那覇市内の自治会館で総会を開き「受託は当然」と決議。募集業務をめぐって保革が対決した。

県庁前で抗議集会

「募集業務を開始する態勢が整ったので一日から行う。特に六者協議会の申し入れがあった『人殺しの手助けをするのか』ということではなく、他県にならっていこうということであって県民にとっても不利益ではない」

31日午後、西銘が記者会見。同日付広報で「県行政組織規則の一部改正規則」を告示したことを明らかにした。

同日、自治労県本部は総評とともの現地闘争本部を設置。委員長・仲吉良新は加盟四十一単組、一万千七百人に対し指令を出した。「各単組は自衛官募集業務を拒否し、諸闘争に入れ」。

自治労県本部傘下の県職労、各市町村職労は8月1日午前八時半から29分の食い込み職場集会を県内41ヶ所で開き、実力阻止の構えを見せた。

そのころ自衛隊沖縄地方連絡部長室。地連を去る部長・鈴木がほこりをかぶっていただるまを戸棚から取り出し、目玉を入れた。部員らの拍手が響いた。

自衛官募集、議会通過

1980年12月1日 午後一時、出張、大阪経由ハワイへ。

1980年12月8日 午前十時、県議会(定例会)開会(議場)。

1980年12月9日 午前九時二十分、上京。

1980年12月12日 午前八時四十五分、上京。

1980年12月13日 午前十時、県議会(代表質問)。

1980年12月15日 午前十時、県議会、一般質問(議場)。

12月8日午前、この日開会する12月定例県議会を前に、自衛官募集業務・主任制度化阻止実行委員会議長の仲吉良新ら二百人の労組員が知事室に推し掛けた。「見解の相違」を理由に西銘が面会拒否。実行委は口々に「戦争反対」「知事は会見に応じろ」と抗議。心配する秘書課職員が西銘に別口から議会に行くことを勧めた。

「悪いことをしているわけじゃない。正面から行くぞ」

西銘は秘書の順四郎にガードされ副知事の比嘉幹郎、座喜味彪好とともに廊下を埋めた労組員の中に割って入った。たちまちスーツは引っ張られ、もみくちゃにされる。顔を真っ赤にしながら議会へ向かった。

ほろ苦い思い出

79年8月1日に自衛官募集業務の態勢を整えて以来、9月定例県議会に委託費(百四十万円)を補正予算で計上したが否決、12月議会でも再否決され、79年度予算での計上を断念。80年6月の県議選で保革逆転、多数与党をバックに12月議会に再提案し決着を目指した午前10時、県議会が開会。三度目の攻防が始まった。

12月15日の一般質問。古堅実吉(共産)は、30年前に西銘が「沖縄ヘラルド」に書いた社説を持ち出し「いまこそ初心に返るべきだ」と迫る。

「確かに当時は非常に若くて、一生懸命勉強して社説も書いたほろ苦い思い出がある。いまでもその内容が全部間違っているとは思わないが、少し勉強が足りずああいう表現になったものもある」

と西銘はかわした。

機動隊導入で可決

代表・一般質問終了後、同案件は18日から企画総務委員会で審議された。20日、自衛官募集業務費を含む一般会計補正予算案が同委員会で採決にかけられた。廊下を埋めた阻止団が迷彩色姿の右翼団体を押し出し委員長室のドアを開けて突入を図り乱闘になった。

総務部長・嶺井政治が機動隊に出動要請。外に待機していた機動隊約500人が議会に入り阻止団を排除。ようやく採決に入った。その結果、野党の棄権で事実上否決され24日の本会議に結論が持ち越された。

最終本会議の開かれた24日、自治労を中心とした労組団体二千人が議会を取り囲む。右翼団体が宣伝カーのボリュームをいっぱいに上げ、労組と対じした。

午後1時すぎ採決に入る。渡名喜藤子(民政ク)が途中退場し、与野党比が22対22の可否同数になったため大田昌知の議長採決で可決した。西銘は同日午後4時、記者会見。談話を発表した。

「県民の間での賛成、反対によって議会が混乱したことは遺憾に堪えない。自衛官を募集することが戦争につながるものでもないし、県民を戦争にかりたてるものでもない。もしそうであれば私自身が反対する」

県は81年1月から業務費の配分を行い募集業務を開始。3月までに革新市町村会の16自治体は拒否、18市町村で業務を始めた(終わり)

 

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