資料 琉球王国時代の民家 その1

 

今回は琉球王国時代の田舎百姓の民家について記事を掲載します。その前に当ブログを訪問される皆様にとって琉球・沖縄の民家のイメージはおそらく下図のような感じでしょうか?

ちなみに昭和初期まで現存していた当時の農村(本部)の民家はこんな感じです。

ブログ主が琉球王国の時代の民家に興味を持つようになったのは、海洋博記念公園内の『おきなわ郷土村』を訪れた際に、再現された民家をこの目で見たことがきっかけです。実際に歴史書などを調べると、当時の民家や百姓たちの様子を描いた記述を複数確認できました。その一部を抜粋します。

・『沖縄の歴史』 比嘉朝潮著(1959年刊行)より抜粋。

冠とともに帯や、衣服の生地、色合、模様に履物、傘等一切の服装品、携帯品まで見分別に定められ、それがしぜんに社会的慣習となって行った。たとえば履物の鼻緒は大名は革、士は練緒といって竹の皮か藺、百姓も奉公人は草履だけは許されたが下駄ははけない、一般百姓は跣足(はだし)であった。百姓の日傘はもちろん、雨の日にも傘は許されず、ミノやクバ笠を許されただけであった。

衣服の地質にも細かいきまりがあり、絹物は大名だけ、士以下は木綿であった。但し芭蕉・麻は一般的であった。

このように、この時代の人々は簪(ジーファー)や衣類・服飾品・携帯品で直ちにその身分を判定することができた。人々は一枚の着物を見ただけで、直ちにこれを着用する人の身分、年齢、男女の別を誤りなく言い当てることができた(年齢・男女の別は縞柄で判別された)。

住宅についてもきまりがあった。屋敷についていうと大名は十五、六角(240,50坪)、上級の士は十二、三角(150,60坪)で、家屋の大きさは総体として家族数によるが、一室の大きさは制限があって大名22畳半、上級の士は16畳、平士は8畳、百姓は6畳以下と定められた。これは都市区域のことで、農村地域の田舎の百姓は、屋敷は九間角(80坪)、家屋は四間に三間の母屋一棟と三間に二間の台所一棟に限られた。なお用材も槇木斛上質の木材は田舎では、禁止、屋根を瓦葺にするのは士以下で百姓には許されなかった。(五十七、十八世紀の沖縄、身分制の成熟より)

・『沖縄本島巡回日誌』 秋永桂蔵筆記(明治14年、上杉茂憲県令の島尻郡巡回日誌)

同十一時三十分、小禄番所を発し、小禄村の飛白織を視察せらる、其家の景象を視るに、低簷矯屋茅を噴き牀に畳なく藁筵を敷けり

・写真集『むかし沖縄』 琉球新報社より(中頭、宜野湾村の民家の写真です)

・『沖縄大百科事典』 沖縄タイムス社(1983年刊行)より抜粋。

穴屋(アナヤー) 沖縄において古代から按司時代(グスク時代)をへて戦前まで存続した掘っ立て小屋住居の呼称。古代は小屋全体が半地下的に造られていたらしい。按司時代のころからは柱に礎石を用い、壁にはチニブ(山原竹を網代のように編んだもの)を二重にし、なかに藁あるいは茅を詰め屋根にはキチ(小丸太)で小屋組みをし、茅あるいは竹茅(篠竹)葺きにした(兼城クェーナによる)。時代が下るにつれて柱は石柱に代わったものもあり、床は土床藁敷きから竹床藁敷きあるいは筵敷きになる。王府時代の敷地家屋の制限令(1737)によって田舎百姓の住まいはおもにこの様式に限定され、昭和初期まで続いた。穴屋にたいして茅または瓦葺きの本格的な木造建築を貫木屋という。〈又吉真三〉

琉球・沖縄の歴史において、百姓たちの住居が法令によって制限されたことは余り知られていません。元文2年(1737年)の敷地家屋の制限令から約150年間、田舎百姓たちは穴屋形式の粗末な住居しか建てることができなかったのです。ブログ主が知る限りでは、当時の田舎百姓の住居を再現している場所は海洋博記念公園内の『おきなわ郷土村』だけですので、実際に現地に出向いて王国時代の住居を撮影してきました。次回からその撮影画像をアップします。(続く)

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