(続)あいろむノート

本日付(11月21日)沖縄タイムス5面オピニオン(以下読者投稿欄)をチェックした際、すごく気になる投稿を目にしました。それは、「国の冷酷さ 軽便鉄道で知る」と題した那覇市在住の購読者からの投稿で、内容は同月6日付沖縄タイムス1面「大弦小弦」に対する反響投稿です。

該当の「大弦小弦」は当運営ブログにて「あいろむノート」と題し、ファクトチェックを試みた件はご存じかと思われますが、その際に「沖縄大百科事典(沖縄タイムス社刊行」から軽便鉄道の記述を引用しました。そして、同記事にて高嶺朝光著「新聞五十年」の記述との矛盾点を指摘しましたが、今回は試しに「沖縄大百科事典」の記述に裏付けがあるか、ブログ主なりに検証してみました。読者の皆さん、是非ご参照ください。

その前に読者投稿全文を紹介します。

国の冷酷さ 軽便鉄道で知る

本紙6日付「大弦小弦」の軽便鉄道の話、沖縄の置かれている立場、昔からの沖縄に対する国の冷酷さが分かりました。

戦後生まれの私が、初めて列車に乗ったのは高校の修学旅行の時、沖縄にない列車に興奮し、なぜ沖縄にないのだろうかと思いました。

しかし、沖縄にも1914(大将)年すえに県営鉄道が敷設されていました。ネットで調べると那覇を起点に北は嘉手納まで、南は国場を通り喜屋武を通り糸満まで、沖縄本島の半分近くを鉄道が走り、物資の運搬・通勤・通学に利用していた。今もあったら車社会の交通渋滞もなかったのでは?驚いたのは、この軽便鉄道は国鉄ではなく県が借金して造った県営だった。

本土には北海道から鹿児島まで国鉄があったのに。沖縄を甘やかすなとか沖縄振興はいつまで続けるかという人たちに言いたい。「基地を更地にしてすぐ返してくれるならいいですよ」と。(那覇市)

太字部分は前回の記事でも指摘しましたが、一部誤認があり、改めて説明すると「軽便鉄道は県が起債(借金して)那覇‐与那原間を開通(大正3年)、ただし嘉手納‐那覇間は国庫補助(一部県が負担)、那覇‐糸満間は全額国庫補助で敷設」されます。確かに当初は県の起債で建設予定でしたが、全線建設に国庫補助が重要な役割を果たしたのは言うまでもありません。

試しに、「嘉手納町史 資料編3 文献資料」487㌻の「六 『鉄道省文書』『現行沖縄県令規全集』のなかの路線関連記事」を参照し、「沖縄大百科事典」の記述を併せて、嘉手納線の敷設についてまとめると、

・明治44年(1911)に沖縄県が鉄道建設を計画。

・大正2年(1913)2月、政府の特許を受けて県営鉄道の企業に着手。

・大正3年(1914)12月、那覇‐与那原間の営業開始(建設費は県の起債)。ただし当初は那覇‐糸満間も敷設予定も、第一次世界大戦の影響で資金調達ができなくなり、県は大正5年(1915)12月、県は糸満線の敷設計画の見合わせを発表。

・大正6年(1917)4月、県は「交通施設の最も急を要する国頭街道線と糸満線の敷設の件」について政府に稟請。それを受けて日本政府は軽便鉄道の那覇‐嘉手納線、那覇‐糸満線の敷設に国庫から特別支給することを決定。

・大正7年(1918)6月、沖縄県の鈴木邦義知事は内閣総理大臣宛に「軽便鉄道敷設免許申請書」を提出。

・嘉手納線は大正9年(1920)に着手、大正11年(1922)3月28日に営業開始、建設総費用は108万7759円を要し、国庫補助は89万7898円、残額は県債県費で支弁。

になります。参考までに、嘉手納線の敷設に国庫補助が投入された件については、「軽便鉄道敷設免許申請書」にも明記されています。

抑本県に於ける鉄道に就き之を観るに既設与那原線の如き開通以来満三ヶ年に過ぎずと雖其の間人文の開発と産業の興隆とを助長せしめたるもの決して鮮少ならず。而かも其の敷設資金は之を起債に求めたるに不拘近時営業成績は順次良好なる結果を示すの現況にあり。されば今回敷設せむとする嘉手納線の如き愈々開通の暁に於ける効果は既設与那原線と相俟って一層大なるものあるのみならず、尚此が敷設資金の全部を国庫の特別補給に仰ぐ次第なるを以て事業の遂行容易なるは勿論営業の成績亦更に顕著なるべきを確信するに有之候条速かに免許相成候様致度軽便鉄道法施行規則第二条に依り意見副申候也

ただし、「嘉手納町史」と「沖縄大百科事典」の記述には一部相違もあり、「嘉手納町史」によると、当初の予算は59万8024円の全額国庫補助であったと明記していますが、「沖縄大百科事典」では建設総費用は100万円を超え、その一部費用は県が負担したと記載されている点です。ただし、この点は建設工事予定の変更に伴う予算の膨れ上がりで、結果的に県が一部負担したと考えられます。それでも国は当初予定の60万弱ではなく、89万円を国庫から支出しているのです。

確かに沖縄に国鉄はありませんでした。その代わりに、沖縄県営鉄道の敷設に国が重要な役割を果たしている事実は無視できません。つまり国が県の事情を鑑みてちゃんとアフターフォローをしたという話であり、冷酷一辺倒であったわけではありません。

これが “政治” なのです。

参考までに沖縄に国鉄が敷設されなかった理由はハッキリしています。それは海運インフラの整備が最優先、具体的には那覇港の修築が最重要課題だったからです。ちなみに鉄道敷設の重要性は、1910年ごろから沖縄各地に製糖工場が建設され、キビ搬入と黒糖の大量輸送の必要性が高まった大正時代に入ってからの話であり、廃藩置県から明治末期にかけては右肩上がりに膨れ上がる県外からの移入・移出に対して那覇港の港湾能力が対応できなくなったため、そちらのほうに全振りしただけの話です。

※那覇港は「沖縄大百科事典」によると明治40年(1907)、帝国議会によって国庫支出で改築工事が決定され、大正4年(1915)年に竣工。この間の費用は82万6000円余、1200トンクラスの汽船4隻が横付けできる桟橋が完成。その後も改築がつづけられ、最終的には4500トンクラス1隻と2500トンクラス2隻が係留できるまで拡張されます。そして那覇港からの定期便には国からの航路補助もありました。

いかがでしょうか。11月6日付「大弦小弦」は「国は冷酷である」との命題を強調するために高嶺朝光著「新聞五十年」の記述を引用し、ろくなファクトチェックもせずにタイムス紙面に “お気持ち表明” した代物であることと、しかも読者が忘れたころにしれっと反響投稿を掲載することで、己の主張(国は冷酷である)を正当化しようする有様です。ハッキリいって、

「大弦小弦」は “お気持ち表明” の場ではありません。

そんなことは、SNS や YouTube 上でやってくださいとツッコミたい気分になります。

最後に、今度の案件は「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ(論語・学而)」の「改むる」にもある程度の能力が必要であることを痛感しました。たしかに現実は過ちを改めないタイプのほうが多いですし、過ちであることを気が付いていないケースすらあります。今回のケースはどれに該当するは定かではありませんが、この手の人材を抱える組織(今回は沖縄タイムス)がツケを払い続けるのは間違いないと思いつつ、今回の記事を終えます。

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