56年前の琉球新報の記事から

本日は昭和37年(1962年)12月27日付の琉球新報から興味深い記事を見つけましたので紹介します。現代と同じくアメリカ世時代も「歳末助け合い運動」が実施されていて、二千五百㌦の寄付金が集まったニュースが報じられていました。ブログ主が全文を書き写しましたので、早速ですがご参照ください。

(注)当時の1㌦は360円で、それに約4倍すれば現在価格と見做すことができます。

現金二千五百㌦集まる歳末助け合い運動終わる

去る十五日から全琉一せいに行われていた歳末助け合い運動は、二十六日で終わった。期間中寄付金だけで約二千五百㌦で、昨年より金品の寄付はかなりふえているが、地域ごとの奉仕作業などは低調だったと主催者側の沖社協ではいっている。

最終日の二十六日沖社協に寄付があったのは、那覇高校二年九組の儀間潔君らクラスメートが衣類、メリケン粉、石ケンなどまた那覇の儀間本店からサンマのカンつめ十箱があった。変わったのでは東部配電が与那原町内の困窮世帯のうち児童生徒の多い八世帯に対し、無料で電気配電し、貧しい家庭に明るい正月を送った。

この運動に協力して、期間中金品の受け付けをした琉球新報社に、二十六日の最終日に月星ゴムから運動靴百足の寄贈があった。

引用:1962年12月27日付琉球新報

前述のとおり1㌦は360円で、現在価格に換算すると 2500×360×4=3,600,000円になります。適切なたとえではないかもしれませんが、美里村吉原の特飲街での娼婦のお値段が大体10㌦(現代価格にすると14,400円)ですから、かなりの額の寄付金が集まっています。

次は同日琉球新報の社会面に記載されたニュースです。

二万五千㌦支払うコザ派幹部喜舎場を釈放

【コザ】二十六日午後二時から民政府裁判所で開かれた予審で布令一四四号違反(武器不当所持)銃砲刀剣類など取り締まり法違反でスティーブンス判事から保釈金二万五千㌦を言い渡されたコザ市安慶田一一八、喜舎場朝信(三九)は同日午後六時半ごろ、コザ署に保釈金全額を収め、二十二日の逮捕以来九十七時間ぶりに釈放された。

この結果、判決が言い渡されるまで保釈条件に違反しない限り身柄は不拘束。

保釈金は身内の者がフロシキにつつんで持ってきて二十㌦、十㌦の札束がポンと机の上に広げられた。これにはさすがの刑事たちもドギモを抜かれたかっこうだった。コザ署で注意を受けたあとタクシーで帰った。

第一回公判は二月末民政府高等裁判所で行われる

引用:1962年12月27日付琉球新報

補足すると同年12月13日に、米国民政府の布令により全琉73か所で暴力団のアジトと思わしき箇所の一斉捜索が行われ、その後22日にも喜舎場さんの家宅を捜索したところヤマナタ1丁が押収され、彼は銃砲刀剣不当所持の布令違反の疑いで拘束されました。

13日の一斉捜索の際に、米国民政府は保釈金を最低1万㌦という従来の100倍の金額に設定し、喜舎場さんは同月26日に民政府裁判所から2万5千㌦の保釈金を言い渡されました。現代価格にすれば3,600万円の大金ですが、なんと彼は一括で支払ってめでたく?保釈されます。

このニュースは本当に全琉が驚き、12月27日の琉球新報(夕刊)にはこんな嫌味なコラムまで掲載されていました。

話の卵ポンと保釈金二万五千㌦

けさ(二十七日)の琉球新報朝刊をみて”暴力はモウかるんだなァ”とつくづく思った。暴力団コザ派のボスが民政府からいい渡された保釈金を、ポンと札束そろえて支払い、保釈されたという記事をみて、彼らがどのような仕事をしているから、このような大金が、すぐ集まるのかアブクゼニもあるところにはあるものだとカンシンした。

ところで同じ紙面に歳末助け合いに寄せられた浄財は、暴力団の保釈金の十分の一の二千五百㌦。この二つの金額の対比はそのままいまの世の中のヒズミを無言で物語っているもので、一方ではブラブラして暴力を売りものにして巨万の富をもち、一方ではあくせく働いてロクに年の瀬もこせない正しいが貧しく生きている人がいる。

このようにイビツな世の中にあって、暴力団の幹部一人がポンと二万五千㌦の大金が投げ出され、年の瀬からお正月にかけて貧しいために暗い心をもつ人たちもいる。考えてみるとなんともバカげた世の中ではあるが、しかしこれが現実の社会の実相であり、ここに定規ではかれない世の中のむつかしさがあるようだ(下略)

引用:1962年12月27日付琉球新報(夕刊)

琉球新報朝刊(7)を参照すると、記事の配置に何らかの”意図”を感じざるを得ません。

昭和36年(1961年)から始まった第一次沖縄抗争の詳細は後日改めて当ブログにて掲載しますが、”善良な市民”こと喜舎場朝信さんはヤマナタ一丁を隠し持った疑いで拘束され、法外な保釈金を言い渡され、しかも翌年保釈が取り消されます。最終的には昭和38年11月8日の民政府裁判で無罪を勝ち取りますが、ヤマナタ1丁が見つかっただけで大金を失い、しかもマスコミからは嫌味を言われるという散々な目に遇えば、表向きとはいえ稼業からの引退を決意するのもやむを得ないかなと、ちょっと気の毒な気分になったブログ主であります。(終わり)

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