【昭和のりうきう】そろって長寿 – 姉103歳、妹100歳 / 「謝花昇」の妹

姉百三歳、妹百歳--。平均寿命が大幅に伸びたといっても百歳まで生きることはまだまだ容易なことではない。東風平村字東風平三八五、謝花ウサさんと同字高良九、野原カメさん姉妹はそろって一世紀以上を生き抜いた。長寿姉妹と地域の人たちのせん望の的になっている。姉妹は、明治時代沖縄の自由民権のために闘った 反骨の士謝花昇の妹に当たる。姉のウサさんがこの五月にカゼをこじらせて足がちょっと衰えたほかは二人とも耳が遠いだけ。身の回りのことは自分でするほどの元気ぶり。ウサさんはイヤッホーンで琉球民謡を聞くのが最大の楽しみ。きげんのいい日には自慢のノドも披露する。カメさんは食事も忘れるほどのテレビのプロレスが好き。そして居間で昼寝を楽しむのが日課。

楽しみは ウサさん(姉)-琉球民謡 カメさん(妹)-プロレス

姉妹は東風平村の農家の生まれ男三人、女三人の六人兄弟で長男があの謝花昇。いま健在なのは長女のウサさんと二女のカメさんだけ。こどものころは兄弟みな毎日イモやサトウキビ作りの畑作業から馬やヤギの飼料である草刈りをさせられた。しかし成人してからウサさんとカメさんは全く対照的な人生を歩んでいる。ウサさんは貧乏と孤独のなかで働きずくめ。カメさんは裕福な農家に嫁ぎ、なに不自由のない生活を送ってきた。ただ熱血の士・謝花昇の妹だけであって、気の強さは二人に共通しているという。

姉のウサさんは明治五年(一八七二)九月五日生まれ。百三歳になったばかりだ。三十代で夫と離婚、若くして亡くなった二男三郎さんの娘(当時三歳)初さんを引き取って育てた。現在その初さん(六〇)の家族と同居している。

「おばあちゃんといえば畑仕事をしている姿しか思い出にない。六百坪の畑をひとりで耕していた。雨の日も風の日も畑に出ていた」と初さんはウサさんの働き盛りのころを話す。ウサさんは寸分を惜しんで働いた。老人が近所を回り歩くと「お茶を出すから来る。仕事をしないから年をとる」ときらった。ウラさんは百歳になっても畑に出て軽い作業を続け、庭の雑草も毎日とるので二年前まで屋敷内の一本の草もなかったという。

ウサさんは若いころからイモしか食べておらず、いまでも週に一回はイモを要求する。記憶力も確かでおいやめいが訪ねてくると「若いころはイモのいっぱい入ったカゴを頭に乗せ、糸満まで二里の道を売りに行ったもんだ。いまの若いもんは働きがたりない」と口ぐせのようにいう。

「わたしの人生には楽しい思い出はない。生活に追われたただ馬車馬のように働きずくめ、年をとる暇がなかったのじゃ」とウサさんは年輪のようなシワをいっそう深くした。

妹のカメさんは明治八年(一八七五)五月一日生まれ。子ども(男四人、女二人)にも恵まれ、長男の栄喜さん(八一)、孫の栄昌さん(六一)など 一族に囲まれのんびりした毎日を送っている。孫の数二十一人までは覚えているが曽孫、やしゃご(玄孫)は何人になったか数えたこともないという。

若いころから胃腸が弱いというので食糧難の時代にウサさんだけはずっと米のごはんを食べた。牛乳屋を経営していたこともあって一日二回は牛乳を飲み、それが現在も続いている。悪かった胃腸も沖縄線の末期、疎開先でかずらやイモを食べているうちに丈夫になった。食事は三食一度も欠かしたことがない。記憶力もことばも驚くほどはっきりしている。「戦後もヤマトには四回行った。まだ見てないのは奈良だけ」と話し出したら止まらない。血色もよく「ここ数年おばあさんの身体の調子、生活ぶりもほとんど変わらない」と孫の栄昌さん。アメリカおーえー(けんか)といってテレビのレスリングが好きで、見せないと一日中きげんが悪いという。(昭和50年9月15日付琉球新報朝刊9面)