香ばしさマックス

今月16日に起きた辺野古沖転覆事故に関する沖縄二紙の記事を蒐集している際、偶然にも実に香ばしさマックスの読者投稿を見つけました。ご存じの通り新聞の読者投稿欄は新聞社編集局の “本音” を伺う重要な場所なので、ブログ主は不定期にチェックしていますが、近年稀にみるレベルの高さでしたので、ついうっかり(永久)保存を試みました。

確かに地元紙にはいろいろ思うところはありますが、この手の “巡り合わせ💛” があるからチェックは欠かせないんですよ。まぁ前置きはそこまでにしておいて、全文を書き写しましたので読者の皆さん、是非ご参照ください。

※なお、ゼロチャンネルのファッキンコールドなボケはいったん置いといてください。

拉致問題解決へ児童交流を 〇〇〇〇=75歳

中学1年生の時に拉致された横田めぐみさんは2024年10月に還暦を迎えている。政府は一向に解決の糸口さえ見つけきれず、米国への協力を幾度か要請する始末である。

そこで子ども同士の交流を提案したい。金正恩総書記は子煩悩で、娘ジュエ氏を後継者にするという報道があった。沖縄からエイサー隊を送り交流を重ねていけば、娘が指導者に成長する頃には沖縄が極東の平和の要石になれるのではないか。拉致被害者や日本人妻の情報も得られるかもしれない。

14、15世紀に琉球は朝鮮王朝と頻繁に交流している。中山に追われた南山王が朝鮮に亡命したり、経典を贈られたり琉朝友好は親密で、万国津梁にまい進している。

その琉球人の末裔として、われわれも努力すべきだ。憲法を守るオール沖縄が引率して沖縄っ子たちに大いに活躍させたいものである。未来を明るく希望あふれるものに!(令和08年03月20日付沖縄タイムス5面)

いかがでしょうか。一見してフリーズした読者もいらっしゃるかと思われますが、どこから突っ込んでいいか分からないというのが正直なところでしょうか。ブログ主も「交流が拘留になったらどうするのだろうか」とのツッコミたい気持ちを抑えながらこの記事を作成してますが、注目は(社会に)辺野古沖の転覆事故の衝撃が残るなかでこの投稿が掲載された点です。

修学旅行の平和学習で高校生が犠牲になった直後に「子ども同士の交流を提案したい」と未成年者を危険に晒しかねない内容を掲載するあたり、沖縄タイムス編集局の神経が理解できません。ハッキリ言って “読者のお言葉だから” では済まないと思うんですが……

なお、この投稿を読んで、ブログ主は即座に子ども好きな独裁者を二人思い浮かべました。参考までに下記引用を是非ご参照ください(終わり)

敗戦から四カ月後の一九四六年元日の朝日新聞二面には、連載「新しき世界の力」第一回としてスターリンをとりあげ、『消えぬ革命家の情熱/民衆と歩む投書政治」』の見出しを掲げてスターリンを礼讃している。

注目すべきは、三七年のトハチェフスキー将軍粛清事件に連座した犠牲者の娘が、スターリンに手紙を書いて父の無実を訴えたところ、一カ月もたたぬうちに、父が流刑先のシベリカから帰されたという話を紹介して、その「投書政治」が「かれの独裁政治の一つの息抜きになつたものではないかと思ふ」と、臆面もなく書いていることだ。

確かにそういったエピソードがあったかもしれないが、それはあくまで九牛の一毛であって、スターリンの長年にわたる粛清がいかに冷血で無慈悲なものであり、ソ連の歴史上、最大の汚点だったかは、いま白日のもとにさらされている。当時、占領軍のきびしい検閲があったことは事実だが、この記述はその故だとは到底言い得ないであろう。米軍政部がスターリン礼讃を教唆したとは考えられないからである。しかも連載の第一回に据えるとなると尚更だ。やはりその当時のインテリ層の間に漂っていたムードを如実に反映したとしか思えない。

傑作なのは、同じ二面のトップに、天皇ご一家の近況を伝える写真入りの大きな囲み記事が「拝謁記者団」の共同記事として掲載されていることだ。皇室記事とスターリン礼讃特集に挟まれたいるのは、お米の供出状況を伝えたニュースで、当時の社会的雰囲気がわかって面白い。朝日新聞はご丁寧にもスターリンが死んだ翌日の五三年三月七日付夕刊『こども』欄で、スターリンを「子供ずきなおじさん」と讃えている。(文集文庫「悪魔払い」の戦後史 稲垣武著13~14㌻)

 

大弦小弦

暴力団・二代目旭琉会の会長〔多和田真山〕が、ピストルで撃たれて死んだ。上納金に伴うシマ割りをめぐる不満が動機、と警察は見ている。それにしても49歳の働き盛り。暴力の世界に身を投じた者の末路とはいえ、哀れだ

▾本人はともかく、後に残された身内のことを考えると、やはり不びんである。世間から後ろ指で指される暮らし、のせいかこの世界には、子ぼんのうが多い、と聞く。会長の場合もご多分にもれない。よく子供たちの遊び相手になっていたという話もある

▾鮮血に彩られた対立抗争。私利私欲を追い求め、他人の生命や安全を踏みにじる。暴力団の無法ぶりに、同情の余地はない。昭和36年9月、那覇、コザ両派の抗争を皮切りに、暴力団抗争は4回を数えた。分裂と統合の反復で、その背後には、利権がうごめいた

▾その間に殺された暴力団員25人。殺されかけたもの36人。なかでも旭琉会による上原一家組員3人に対する楚洲山中での殺人、死体遺棄は、残忍を極めた。穴を掘って突き落とし、ピストルを乱射、はい上がろうとするのをナイフで胸を刺し、とどめをさすなど、暴力団の凶悪な本性をむき出しにした

▾暴力団の抗争が起きるたびに苦労するは、その処理に当たる警察官と暴力団アジト周辺に住む人たちである。過労で殉職。狙撃され重傷を負った警察官もいる。米軍基地をひかえ、銃器類が比較的手に入りやすいのも、抗争をし烈化させた

▾こんどの事件をきっかけに、流血の抗争再燃のおそれが出た。一般市民が、その巻き添えをくわぬ、という保障はない。暴力団の本質を見抜くことは、私たちの自衛手段にもつながる。凶悪な集団との共存なんて、幻想でしかない。組織壊滅の絶好の機会だ。(昭和57年10月10日付沖縄タイムス朝刊1面)