【追悼】糸数真會長の経歴(1)

今月19日早朝、沖縄市諸見里の4代目富永一家の事務所にて火災が発生し、身元不明の遺体が発見されたとの報道はご存じかと思われますが、後にその遺体が糸数真會長であったことが判明し、沖縄はおろか全日本のアングラ界に衝撃が走りました。

旭琉會の今後についてはまだなんともいえないため言及は避けますが、今回はブログ主の手元にある史料をチェックした上で、分かっている限りの糸数會長の経歴を紹介します。というか思った以上に彼の史料が見つかったのでつなぎ合わせではありますが簡潔にまとめてみました。読者の皆さん是非ご参照ください。

なお氏名については「、平成23年(2011)11月27日の旭琉會親子縁組盃之儀式の動画※」において「糸数真」と紹介されていましたので、その名称で統一します。※動画は削除済

糸数真氏は昭和30年(1955)久米島の仲里村(当時)生まれ、中学を卒業時に沖縄本島にわたり、同郷の先輩である富永清氏の門を叩くとありますが、「旭龍(沖縄やくざ統一への軌跡)」には以下の記述があります。

※「旭龍」は一部記述に不正確な部分はあるも、時系列は正確な記述になっています。

糸数は久米島村の具志川村※の出身で、中学を出るや本島のコザへ渡り、故郷の憧れの大先輩である富永の門を叩いた。時代は本土復帰2年前、沖縄連合旭琉会が結成されるのもその年12月のことで、富永もまた山原派幹部の時分であった。が、16歳の糸数は富永から「ダメだ。子どもを入れるわけにはいかん。考え直せ」と追い返された。何度門を叩いても撥ねつけられるので、糸数は仕方なく久米島の仲間たちと本土へ渡り、神奈川方面でやんちゃをしたり、また沖縄へ戻って那覇の盛り場でブラブラする日々を送ることになる。(『旭龍』300~301㌻)

※昭和57年10月の琉球新報の記事では久米島仲里村出身となっています。

ただし、この記述は鈴木智彦さんの記事と一部内容が矛盾しています。

糸数二代目は、初代富永会長と同じ久米島出身で、富永初代の出身母体である富永一家の三代目を継いだ子飼いだ。若い頃は2022年にNHKで放映された連続テレビ小説『ちむどんどん』の舞台となった横浜市鶴見・潮田地区の沖縄人集住エリアに住み、富永一家川崎支部を率いていた。ドラマの放映時、鶴見時代の思い出を訊いたことがある。

「本土復帰の前だから、パスポートを持って沖縄と鶴見を行ったり来たりの生活。鶴見はアパートや飲み屋でも、沖縄人お断りのところがたくさんあった。なにせすぐ喧嘩をするしね。朝鮮の人たちとは仲が良かった。地域には共産党もあちこちにいた」(糸数会長)

沖縄の指定暴力団・旭琉會糸数真会長が事務所火災で死亡 5次にわたる身内の抗争で警察キャリアも激高「沖縄やくざ」の行く末は

矛盾点はさておき、この記述で重要なのが糸数さんが若いころから本土に行き来して、地元のアングラ界との交流があった点です。それはつまり彼は本土流のアングラ界の流儀や標準語のコミュニケーションを習得する絶好の場を得ていたことを意味します。特に70年代から80年代にかけての沖縄ヤクザ業界では標準語を流ちょうに使いこなすことは大きなアドバンテージになっていたのです。

ちなみに「旭龍」によると成人を迎えてから入門を許される(昭和50年ごろ)とありますが、その後糸数氏にとって決定的な出来事が訪れます。それは昭和52年(1977)ごろに出所した同郷の先輩である上江洲丈二氏との出会いです。上江洲氏も久米島出身なので、幼いころから面識はあったようですが、彼との出会いが糸数氏の893人生を決定づけたといっても過言ではありません。

なお上江洲氏は喜納昌吉さんにヘロインを卸して彼を刑務所送りにし、ご自身も昭和47年(1972)に懲役5年の実刑を食らうという恐ろしいお方ですが、彼は沖縄ヤクザ史では(同郷の先輩である)富永清氏を支えた偉大なるセカンドマン(補佐役)であることは間違いなく、糸数氏も上江洲さんの下についてヤクザ業界で順調に出世していきます。

おクスリとオキナワ

ここまでは順風満帆のヤクザ人生を過ごしてきた糸数氏ですが、そんな彼に人生の転機が訪れます。それは「真山(会長)が旭琉会の会長になって、ことし初めごろ(昭和57年)からあまりにワンマンで横暴で威張りくさって、自分勝手すぎたのでどんどん不満がつのり、ついうっかり射殺した(意訳)」の名言を残した多和田真山旭琉会会長射殺事件(昭和57年10月9日)の主犯として逮捕されたのです(続く)。