大陸および台湾の中国人との付き合いについての考察

ここ最近、とあるSNS上で、台湾において我が沖縄のことを「琉球(沖縄)」と表記する旨の書き込みがあり、ちょっとした話題になっていました。ブログ主は中国の専門家ではないため、たとえば巷で唱えられている「中国脅威論」には一線をひいてますが、我が沖縄の隣国として中国大陸や台湾の政権および中国人たちの行動様式は無視することはできません。それゆえ彼らの行動パターンは如何なるものか、いろいろとブログ主なりに調べてみたことがあります。そのなかで今回は個人的に一番しっくりきたエピソードを紹介します。昭和61年(1986年)に刊行された長谷川慶太郎著『さよならアジア』からの抜粋で、読者の皆さんぜひご参照ください。

(中略)私は、1970年の大阪万博のとき、香港の華僑たちにそれこそ「脳天をなぐられた」感じをうけたことがある。それは、かれらが個人として二十五年前の戦争のことを一瞬たりとも忘れていないだけでなく、中国民族として、日本人にくわえられた戦争中の被害を一瞬たりとも忘れていないと思わせる事件を何度か経験したからである。

たとえば、当時香港の華僑たちのあいだでは、大阪万国博の評判が悪かったことに気づいた私は、何人かの華僑たちにそのわけを聞いてみた。そのなかのひとりが、

「アメリカ館とソ連館のまえに、行列をつくるのがいけない」

という。当時、もっとも人気のあったこの両館は、入場するのに何時間もならんだものである。いっそうわけのわからなくなった私は、こういった。

「だれでもおなじ行列にならんでいるし、日本人として外国人とを差別していないのに、どうしてそれがいけないのか」

その答えはおどろくべきものだった。

「あなた方日本人は、敗戦国民だよ。われわれ中国人は戦勝国民だ。戦勝国民と敗戦国民とおなじように行列させるのが、敗戦国民が戦勝国民にたいしてとるべき態度なのか」

戦争がおわって何十年たっても、まだ戦勝国、敗戦国という区別にこだわるのが、中国人に共通した発想なのである。(『さよならアジア』 88~89㌻からの抜粋)

光文社から発刊された同氏の『迷走する中国』(昭和60年刊行)にも同じ内容が記載されていましたが、この話のポイントはふたつあります。ひとつは中国人および社会に「時効」の概念が浸透していないことと、もうひとつは、時効の概念に欠ける故にいまだに支那事変(日華事変、日中戦争)の勝敗にこだわっていることです。長谷川氏のエピソードは大阪万博のころですので50年近く前の話ですが、このセンスは半世紀後の今日にも受け継がれていることは間違いありません。

中国人は「言質を取られる」ことを好まない傾向があります。そのため通常のお付き合いでは見えてこない部分なのかもしれません。だがしかし、中国共産党の対日外交における強気や、台湾における琉球(沖縄)に対する表記から、かれらの隠された本音をうかがうことができます。ちなみに「琉球(沖縄)」の表記については「かつて琉球は中国の外藩だった。日清戦争の敗北によって我々はやむを得なく日本帰属を認めたのだ。だがしかし日中戦争で敗北したからには、琉球は台湾に帰属するべきで、それが敗戦国民としての礼儀ではなかろうか」という台湾の中国人の本意ではなかろうかとブログ主は推測しています。

このエピソードを紹介した長谷川さんは、ご自身の経験で中国人との付き合い方について言及しています。

中国人との交際に何より必要な点は、まず率直さである。さきにあげた、1970年、大阪万博のときの経験をとっても、著者は中国人に対し、その後は遠慮なく「われわれ日本人は敗戦国民であるという意識を持たない。その理由は日本の経済的成長にある」といい切って、中国人と交際した。(『迷走する中国』184㌻からの抜粋)

長谷川さんの体験を踏まえて、では我が沖縄県民が大陸および台湾の中国人と付き合う際の態度を考えると、「我が沖縄県民は沖縄戦の惨禍から立ち直り豊かな社会を築くことに成功した。そして米軍基地を設置することで欧州における冷戦の勝利に貢献した。だから我々は敗戦意識をもたない」という立場を明確にすべきです。ちなみに現在主流と思われる「日中友好=相手のいうことはできる限り聞くべき」という態度は、敗戦国民の礼儀を尽くせと同義なのでいつまでも中国人に馬鹿にされます。そしてこういうひとたちが日中および日台関係の最大のガンではないか、ブログ主はそう疑わざるを得ないのです(終わり)。

 

 

 

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